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「川角太閤記」巻1を読む 秀吉軍の追跡を断念した毛利家

毛利家が上方に置いていた者たちは午後八時ころ、到着なされた。「信長公二日午前二時ころに切腹なされたそうだ」とのこと。詮索すると、四条堀川の通りに鉄砲が厳重に配置してあるようである。町人もこれはどうしたのだと不審がり、町々の木戸を固め人を外に...
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「川角太閤記」巻1を読む 秀吉軍、中国備中から退却

六月四日に、城主清水が切腹するやいなや、秀吉は大知坊という陣僧を毛利の陣にいる吉川元春、小早川隆景、宍戸元次の三人のもとへ遣わされた。「城主清水の儀は今朝我が陣の前に舟を着け、切腹に及びました。約束通り、家中の者一人残らず、武具道具に至るま...
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「川角太閤記」巻1を読む。備中高松城主 清水長左衛門の切腹

信長公が切腹された天正十年午の六月二日の事件、備中への注進は、同三日の亥の刻であった。その早飛脚は蜂須賀彦右衛門にお預けなされ、一箇所に押し込め、他の人に会わないよう彦右衛門が念を入れた。必ず後から追々注進が来るだろうが、是より二三里先に人...
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「川角太閤記」巻1を読む 光秀の部隊、本能寺に迫る

この六月は夜が短く、しかも本能寺はここから五里の道のりである。ほのぼの明けるころには、本能寺をひたと取り巻きなされることであろう。その後は何も談合などなく、馬を早め、老の坂へかかり、谷の淵、峰の淵を過ぎて沓掛において各々兵糧をつかわした。天...
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「川角太閤記」巻1を読む 明智光秀謀反の心中を打ち明ける

家康は安土において、信長より饗応され、幸若舞の能を見物していたが、このころ、羽柴筑前より、毛利が大軍を率いてきたので後詰に来ていただきたいとの飛脚が到着した。信長は、輝元の幸の砦が出来たなら、この次をもって討ち果たすとわずかに馬廻り百六十騎...
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「川角太閤記」巻1 秀吉、信長に中国出陣を要請す

信長が安土で家康を歓迎していたそのころ、羽柴秀吉は安芸の毛利輝元と対峙し、備中の巣蜘蛛塚の城を攻め落とし、河屋城へ押し寄せていた。城を守る毛利方は羽柴軍の勢いに驚いて降参。秀吉は城を受け取ると、次のターゲットである高松城へ押し寄せた。秀吉軍...
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四月度NHK学園「川角太閤記」巻1

NHK学園の歴史講座は四月、五月と「川角太閤記」を学ぶことになりました。「川角太閤記」は全五巻からなり、成立年代は元和七年(1621)から元和九年(1623)と推定され、著者は豊臣大名田中吉政の旧臣川角三郎左衛門とされています。江戸時代の初...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む27 家康軍関ヶ原に入る

、そのころ、関ヶ原には松尾山城の他に北國街道を塞ぐ700メートルにわたる大土塁が築かれ、宇喜多陣は古代の土塁を利用し構築され、家康を迎え撃つ準備がすでに整っていた。ここにおいて、家康軍はそれら三成が関ケ原に築いていた強固な防衛線を攻めること...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む26 家康動く

大垣城の石田方は城の外曲輪に小屋掛けしていた兵の小屋を焼き払い、午後六時ころ、ついに大軍を動かした。この情報を夜半に察知した家康はすかさず追撃を開始した。ここに大垣城を攻めるという当初の作戦は消え、家康は野外での決戦を選択せざるをえなくなっ...
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関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読む25 小早川による松尾山城ジャック 

家康は当初は赤坂で秀忠率いる徳川本軍三万五千の兵が到着するのを待つつもりであった。また、大垣の西軍首脳も大坂より毛利輝元が出陣するのを待って関ヶ原へ向かうというシナリオを描いていたことであろう。しかし、両者共に思いがけない出来事が起こった。...