「川角太閤記」巻1を読む。備中高松城主 清水長左衛門の切腹

信長公が切腹された天正十年午の六月二日の事件、備中への注進は、同三日の亥の刻であった。
その早飛脚は蜂須賀彦右衛門にお預けなされ、一箇所に押し込め、他の人に会わないよう彦右衛門が念を入れた。
必ず後から追々注進が来るだろうが、是より二三里先に人を出しておいたところ、案の定、注進状が雨の降るようにやってきた。
書状だけは受け取り、飛脚はすべて追い返せとのこと。
そのころ、備中高松城主清水長左衛門より、「明日四つ五つの頃、御陣の下に舟を付け切腹するつもりですが、下々の者はお助け下さるとのお約束です。必ず、明日、陣の下に舟を着けましょう」と言ってきた。
だが、上方からの注進があったので、上様切腹の様子がとりどりに噂が立ち、陣中が騒ぐことが予想された。
そこで、方々の飛脚は道中より追い返された。
清水長左衛門は約束通り、松本平蔵という小姓一人、舵取り二人を伴って秀吉の陣の下に舟を押し寄せ、「お約束通り、下々以下お助け下さるよう」と申し上げたところ、秀吉は「相分った」と申されたので、舟を陣の下に着けた。
秀吉は「その方の神妙の次第感じ入った」とお使いとして蜂須賀彦衛門、森勘八二人を遣わされた。
清水長左衛門は「この上は他の家臣たちはお助け下さることには何の疑いはありません。それを見届けるには及びません。どうかご両人確かに御覧なされ」と腹十文字に掻き切り、松本平蔵が介錯し、その首を両人に渡し、自分も腹を切った。
舵取りの一人は侍だったのでそれを介錯した。
頸二つ桶に入れ、塩漬けにして、秀吉は次のように言った。
「毛利家にはまだ引き渡さない。良い機会なので、もう少し様子を見て、堀久太郎にこの辺りの事情を申し含め、やがて上方に遣わせようと思う。この首を披露なされ」と、「まず、森蘭丸、福徳左衛門のところまで届け、やがて陣中の上様に進上させよ」と早馬で三人を上らせられた。
心の内は、上様は切腹されているので、この首を実験されるお方はいないが、播州姫路に召し置かれた。
お留守居の三吉武蔵殿へこの首を渡して、姫路の橋の欄干に掛けられることを心待ちにしているそうである。

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