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関ケ原前夜「慶長記」を読む23 揺れ動く家康

「慶長記」の九月十日の条には「十日、熱田、此の日、西の海辺四五ヶ所焼く。是は敵方九鬼大隅守(嘉隆)焼き候由、岡崎より池鯉鮒へ行くに煙見ゆる。熱田浜辺より五、六町程先に、大船一艘、地は紫に白桐の頭の幕張りたり。九鬼大隅守船之由。先へ遣わされ候...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む22 小早川秀秋の接触

九月三日、家康は東海道小田原に着いた。そこに、これまで石田方の中核部隊として行動してきた小早川秀秋が使者を遣わしてきた。だが、家康はこれを取り合おうとはしなかった。この小早川の使者が家康に何を伝えようとしたのかは分からないが、内応の意思表示...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む21伊達政宗の不安と家康の出馬

上杉攻めの最前線宇都宮城を守っていた秀忠が上終結していた徳川三万五千の本軍を率いて行くことになったことで、大きな不安を覚えたのは伊達政宗であった。家康、秀忠が関東を後にすることは徳川による上杉攻めが完全に消滅したことを意味する。もう徳川の後...
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関ヶ原合戦「慶長記」を読む20 岐阜城落城

慶長五年八月廿八日、福島正則、池田輝政から家康に書状が寄せられた。去る二十三日、岐阜城を攻め落としたので、出馬を要請するというものだった。岐阜城は石田方の重要拠点で織田秀信(信長の嫡孫)が守り、周囲の竹ヶ鼻城や犬山城はそれを守る城として織田...
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関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読む19福島正則の怒りと村越茂吉の智恵

慶長五年八月四日、家康は早朝に下野小山を出て、古河より舟に乗って江戸帰還を目指した。途中、栗橋で舟橋を切ったため、お供は渡し船で川を渡るしかなかった。十日、家康は江戸城で本多忠勝らと鶴料理を食した。すると、そこに伏見城落城の知らせが寄せられ...
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関ヶ原合戦前夜「慶長記」を読む18 福島正則への警戒

小山に着いた大名たちには、食事の振る舞いはおろか、茶も出なかった。福島正則、池田輝政、浅野幸長らの武将は家康の御意を聞いて、広間を出ると直ちに上方へ向かった。この「慶長記」には、小山の会議の内容については何も触れられてはおらず、ただ、そこで...
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関ケ原合戦前夜「慶長記」を読む17 下野小山を目指す大名たち

家康のもとには家康に従軍した大名たちの妻子が三成によって大坂城内の長屋で人質にされたとの知らせが届けられた。細川忠興の妻はそれに抵抗して自害、屋敷は焼亡したという。いよいよ戦いは本格化してきた。このころ、上方から来る書状は結われた髪の中に忍...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む16 古田織部と佐竹義宣

家康が上杉を攻めるにあたって不安材料の一つは常陸の大名佐竹義宣の動向であった。120万石の上杉と50万石の佐竹が手を組めば、さらに大きな脅威となって、家康の前に立ちはだかることになる。何より、佐竹は石田三成との関係が深く、家康派ではない。そ...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む15 沼田騒動

犬伏を後にした真田昌幸は、次男の信繁、春原若狭、佐藤軍兵衛などを連れて沼田へ向かった。沼田は今は嫡男信幸の領する地であるが、かつては昌幸が徳川、上杉と主君を変えながらも守り通した要衝の地であり、昌幸との関係は深かった。利根川河畔に建つ沼田城...
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関ケ原前夜「慶長記」を読む14 真田家の判断

真田昌幸の嫡男信幸は家康の重臣本多忠勝の娘を嫁にし、これまで家康配下の武将として仕えてきていた。そんな背景から、ここにおいて、家康に付くのは当然のように思えた。しかし、信幸は犬伏で父昌幸、実弟信繁と真田家の今後の行き方を話し合う前にすでに井...