関ケ原前夜「慶長記」を読む27 家康軍関ヶ原に入る

、そのころ、関ヶ原には松尾山城の他に北國街道を塞ぐ700メートルにわたる大土塁が築かれ、宇喜多陣は古代の土塁を利用し構築され、家康を迎え撃つ準備がすでに整っていた。
ここにおいて、家康軍はそれら三成が関ケ原に築いていた強固な防衛線を攻めることとなった。
また、関ヶ原入口の垂井には毛利秀元、長曾我部盛親など二万を超える大軍が布陣し待機していた。
それは、関ヶ原に入った徳川軍を背後から襲うことのできる十分な兵数であった。
家康にとっはてその一つ一つが脅威であった。
しかし、家康はなぜか、まるで結果が分かっているかのように、それをものともせず大軍を関ヶ原に向かって動かした。
「慶長記」には次のように記されている。
「十五日、小細雨降り、山あひなれば、霧深くして十五間先は見えず。霧上がれば、百間も五十間計り先もわずかに見ゆるかと思えば、そのまま霧下りて敵の旗少し計り見ゆる事もあるかと思えば、そのまま見えず。家康公御馬立てさせられ候所と治部少輔・小西摂津守・備前中納言殿・大谷刑部少輔陣場とは間
一里余りなり。鉄砲の鳴る音は、霧の内にておびただし。御馬廻りはかきもの共いさみ、我も人も馬を乗り廻し、御備えしかと定まらぬ時、野々村四郎右衛門と申すもの、家康公の御馬へ馬を乗りかけ候。御腹立ち候て、刀を抜き御はらいなされ候へば、野々村には御刀当たらず。御刀抜かせられ候に驚き、野々村は乗りて逃げければ、御腹立ちのあまり、御そばの者門名長三郎と申す御小姓立の者の指物を、指物筒の際より切らせられ候共、身には当たらず。真実に切らせられ候はばたまる事にかあるまじきか。」
家康に従軍する豊臣大名らが関ヶ原に布陣したのは日が変わった十五日の暗いうちだった。
関ケ原は小雨が降った上に山間部だったため霧が深く、先は見えなかった。
時々霧が明けたときに、西軍部隊の旗が翻るのが見える程度であり、視界は悪かった。
その霧のなかで鉄砲の音だけが鳴り響いていた。
そのせいか戦いは入り乱れ、大将家康の前を馬上で通り過ぎる武士もいた。
家康はこれに腹を立て刀を抜き切りつけて追い払うほどであった。
家康はいまだ戦況がつかめず苛立っていた。

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