関ケ原前夜「慶長記」を読む26 家康動く

大垣城の石田方は城の外曲輪に小屋掛けしていた兵の小屋を焼き払い、午後六時ころ、ついに大軍を動かした。
この情報を夜半に察知した家康はすかさず追撃を開始した。
ここに大垣城を攻めるという当初の作戦は消え、家康は野外での決戦を選択せざるをえなくなった。
同時に、美濃赤坂でもうしばらく秀忠を待つという選択肢もなくなった。
家康はここに豊臣大名を率いて戦うことを決めたのであった。
家康の率いる部隊は家康を守る旗本部隊、井伊直政、松平忠吉の部隊のみ。
これは主力とは成り得ない。
だが、家康は今が勝負所、勝機をつかむ唯一のチャンスであると見たのであった。
だが、大軍同士である以上、簡単には決着が着くとは思えなかった。
家康の重臣井伊直政は本陣を垂井の菩提山城に移すことを家康に提案し、15日早朝をもって徳川軍はそこに移ることになっていた。
しかし、三成らが大垣城を出たことでその計画は実行されることはなかった。
だが、合戦が長引いた場合、徳川軍は関ヶ原から菩提山城に本陣を移す可能性は大いにあった。
三成らの大軍はメインの街道である中山道を通らず牧田道という間道を通って関ヶ原に移動した。
松明を消し、馬の口に轡をかませ、行軍したという。
そのため、赤坂の家康本隊は三成の行軍を察知するのが遅れた。
牧田道沿いには南宮山、栗原山があり、三成は行軍の途中で毛利軍、長曾我部軍と最後の打ち合わせを行った。
急を知って、至急の行軍を開始した福島正則の隊は、急ぎ、関ヶ原間近で、宇喜多隊の最後部と接触した。
関ヶ原にはすでに関ヶ原での隘路山中村に大谷吉継が、さらに中山道を封鎖するために脇坂安治、小川・赤座の諸隊が十日以上前に布陣していた。

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