「川角太閤記」巻1を読む 光秀の部隊、本能寺に迫る

この六月は夜が短く、しかも本能寺はここから五里の道のりである。
ほのぼの明けるころには、本能寺をひたと取り巻きなされることであろう。
その後は何も談合などなく、馬を早め、老の坂へかかり、谷の淵、峰の淵を過ぎて沓掛において各々兵糧をつかわした。
天野源左衛門を呼んで、「これから先は急ぐつもりである。そのわけは、味方の中から本能寺へ注進する者もあるかもしれない。そのような卑怯な者を見たら、討ち捨てよ」と先に遣わされた。
天野源左衛門はかしこまって承り、急ぎ先へ向かったところ、夏なので早朝にもかかわらず、東寺辺りの野に瓜を作る者たちがすでにその畑にいた。
彼らは武士たちを見つけると方々へ逃げ散ろうとした。
もしかしたら、本能寺へ行くのではないかと後を追って二、三十人斬り捨てた。
罪なき者ではあったが、天野源左衛門が念のためにしたということである。
光秀は兵士に草履を履くように命じた。
鉄砲の者どもには火縄一尺五寸に切り、その口に火をわたし、五つずつ火先を下げよとの命であった。
桂川を渡った。
そこでの触れは、「日向守様は今日より天下様にお成りになる。下々草履取りに至るまで勇み喜べ」ということであった。
京中町近くなったので、斎藤内蔵助は町辺りで、「いつものようにくぐり戸があるが、木戸を押し開けよ、くぐり戸までは幟・指物は構うべきではない。人数が繰り入ることは、気が歯がゆく思うかもしれないが、町々の木戸を押し開けよ。一筋にはいかないだろうが、組それぞれ思い思いに本能寺の森、さいかちの木、竹藪を雲の隙間に目当てにせよ。そうすれば、踏み違えることもないであろう。そのことを心得よ」と声高く下知されたそうである。
(ここから先、本能寺襲撃の内容については『信長公記』に詳細な記述があることからか、何も記されてはいない・・・・・・。

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