「川角太閤記」巻1を読む 秀吉軍の追跡を断念した毛利家

毛利家が上方に置いていた者たちは午後八時ころ、到着なされた。
「信長公二日午前二時ころに切腹なされたそうだ」とのこと。
詮索すると、四条堀川の通りに鉄砲が厳重に配置してあるようである。
町人もこれはどうしたのだと不審がり、町々の木戸を固め人を外に出さない。
明智殿の家臣溝尾少兵衛殿、町が静まりかえると、「何の子細などない、惟任日向守殿が今日より天下殿になられたので、洛中の地子を御免なされる」と町々に触れ回ったので、明智の謀反が知れ渡ってしまった。
吉川元春陣へ小早川隆景、宍戸備前が集まって、談合し、「今日の誓詞は破っても構わない。これは騙されてのものであり、このような時にこそ馬を乗り殺す覚悟で早々と進むべき」と吉川は申された。
弟の小早川はそれには一言も触れず、少し考えて申されるには、「元春の言うことは尤もであるが、昔より今に至るまで、何事にも付け、ものの固めは書き物、誓詞を鏡にすべきものと思います。父元就公の死去の誓詞には、輝元公を兄弟が盛り立てよとの誓詞を仰せ付けられた時、元春公が最初に判を押され、次に私が判を押しました。その誓書は一通が元就公の棺に入れられ、一通は厳島神社に納められ、一通は輝元公へ下げ渡されました。そこには、毛利家は私が亡くなった後は天下の心がけなどしてはいけないと第一に書いてあります。今日の起請文を破り捨てては、冥途におられる元就公に背くことになりましょう。また、厳島の神の罰も蒙りましょう。羽柴筑前が国元播磨へ無事に帰ったとの報告が届いたら、その上で馬を出してもよいのではないでしょうか」と元春に申された。
元春も隆景の言う道理に何となく馬を納められ、小早川も自分の陣に帰ってしまった。
中略(後に秀吉公が小早川隆景に五十二万石をお与えになったのは、隆景がこうして家中を鎮めたからである)

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