「川角太閤記」巻1 秀吉、信長に中国出陣を要請す

信長が安土で家康を歓迎していたそのころ、羽柴秀吉は安芸の毛利輝元と対峙し、備中の巣蜘蛛塚の城を攻め落とし、河屋城へ押し寄せていた。
城を守る毛利方は羽柴軍の勢いに驚いて降参。
秀吉は城を受け取ると、次のターゲットである高松城へ押し寄せた。
秀吉軍は高松城を幾度となく包囲したが、周囲は低湿地で大軍が近寄れない要害地形であった。
このままでは、城を攻め破ることが困難と思われたので、地形を見、水攻めをすることになった。

明智光秀、備中へ出馬を命ぜらる。
原文を読むと
「此の上は、毛利家より後詰これあるべしとて、堤を丈夫につき、その上に塀をかけ、陣屋をかけならべ、堤の外には、しゃくをゆひ、乱杭・逆茂木をふり廻し、水も過半たまり候の由、筑前守所より注進候。加勢のため、中川瀬兵衛・高山右近・長岡与一郎・・・備中へ陣用意仕るべしと仰せ付けられ、国へ差し戻され候間、日向(光秀)事、但馬より因幡へ入り、彼の国より毛利輝元分国伯州・雲州へ成る程乱入申すべきものなり。毛頭油断あるべからず候。早々丹波へ罷り帰り、陣用意仕り、打ち立ち申すべしと仰せつけられ、惟任日向守御返事には、畏み入り候。急度陣用意仕り、打ち立て申すべく候。御吉左右においては、輝元領分の国へ乱入、先様の様子申し上ぐべく候と領掌仕り、安土を罷り立ち、丹波の居城亀山へ入り申され候事。」とある。
秀吉は、毛利の救援を警戒し、土手・土塁を強固にして備え、水攻めの準備が整うと、信長に出陣を要請した。
信長は加勢の部隊として、中川清秀、高山右近、細川忠興への出陣を要請。
明智光秀には山陰道を通って、日本海側の伯耆・出雲より攻め入ることを命じ、これにより、光秀は安土を退出して、居城の丹波亀山に出陣の準備のために入った。

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