「川角太閤記」巻1を読む 明智光秀謀反の心中を打ち明ける

家康は安土において、信長より饗応され、幸若舞の能を見物していたが、このころ、羽柴筑前より、毛利が大軍を率いてきたので後詰に来ていただきたいとの飛脚が到着した。
信長は、輝元の幸の砦が出来たなら、この次をもって討ち果たすとわずかに馬廻り百六十騎の規模で信忠父子で上洛された。
信長は本能寺に信忠は妙覚寺に入られた。
出陣にあたって、明智光秀は五人の重臣たち(明智左馬之助、弥平治次、同次郎左衛門、斎藤内蔵助、溝尾少兵衛)を呼び、心中を打ち明け、「各々が同心なされるなら、この牛王の紙の裏に起請を書き、人質を取りかためたい」と言った。
中国へ出陣にあたっては、5月29日に鉄砲の玉薬、長持ちなど荷物百荷ばかりを整えた。

「則ち亀山の東の柴野へ打ち出られ候時は、はや酉の刻に罷り成り候。自身乗り廻り、人数三段に備え、この人数何ほどあるべく候や、斎藤内蔵助に仰せ聞かせ候へば、内々御人数のつもり一万三千は御座あるべしと見及び申し候と御請け申し上げ候。」
こうして、光秀は一万三千の兵を率いて亀山城を出た。

「日向守殿それより南へ馬を乗り出し、備えと一町半ばかり隔て、婿弥平次を呼び寄せ、五人の者共に談合すべき子細に候間、急ぎ我が前へ来たり候へとて、弥平次使いに参り候。以上五人召し寄せられ、此の外、あたりに一人もこれなし。日向守殿は、床几より降り、敷皮をのべさせ、其の上に居なおり、存ずる旨申し出すなり。上様かほどに御取り立てなされ候儀は、各々存ぜられ候通りなり。我が身三千石の時、俄かに廿五万石拝領仕り候時、人一円に持ち申さず候故に、大名衆の者ども呼び取り候ところに、岐阜において三月三日の節句、大名高家の前にて面目失いし次第、信濃の上の諏訪にての御折檻、又、此の度、家康御上洛のとき、安土にて御宿仰せ付けられ候ところに、御馳走の次第、油断の様に、御しかりなされ、俄かに西国陣と仰せられ候。条数再三に及び候上は、終には我が身の大事に及ぶべしと存じ候。又、つらつら事を案ずるに、右の三箇条の遺恨の次第、目出度い事にも成るべし。世間、有為転変の習い、一度は栄え、一度は衰えるとはよくこそ伝へたり。老後の思い出に、一夜たりとも天下の思い出をすべきとこの程、光秀は思い切り候。各々同心なく候へば、本能寺へ一人乱入し、腹切って思い出すべき覚悟なり。各々いかにと申されしかば、弥平次進み出て申す様子は、御一人御胸におぼしめし立ち候とも、天知る地知る我知る人知ると申す例えの御座候に、ましてや五人の者に仰せ聞かされ候上は、おぼしめし留めらるる事、全く御無用候と、申し上げるやいなや、溝尾内蔵助を初めとして目出度き御事おぼしめし立たれ候。明日よりして上様と仰せ奉るべき事、御尤に候。」

光秀は出陣後、すぐに先の五人を呼び、周辺に人がいないことを確かめると、信長を討つ理由について種々述べ、各々の賛成が得らえなければ、自分は一人でも本能寺へ斬り込んで、腹を切り、今生の思い出にする覚悟であると再び心中を披歴した。
そこに、弥平次が進み出て「我ら五人に心中を披歴された以上、御心配など無用です。あなた様は明日から上様になられるのです。おめでたいことではありませんか」と述べた。
こうして、心を一つにした明智軍は本能寺へ向けて進んでいった。

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