「川角太閤記」巻1を読む 秀吉軍、中国備中から退却

六月四日に、城主清水が切腹するやいなや、秀吉は大知坊という陣僧を毛利の陣にいる吉川元春、小早川隆景、宍戸元次の三人のもとへ遣わされた。
「城主清水の儀は今朝我が陣の前に舟を着け、切腹に及びました。約束通り、家中の者一人残らず、武具道具に至るまでこれを毛利の陣へ渡しましょう。この上は互いに長陣になってしまったので、仕方なく、こちらとしてはひとまず先に陣を退こうと思います。ついては、起請文の準備を進めましょう。もし、同心ならば、そちらより陣僧を一人遣わして下さい」と申された。
毛利家も城を見捨てたことは仕方がないことと三人とも思われた。(この後、秀吉の陣には安国寺恵瓊が陣僧として遣わされ、秀吉と初めて対面し、秀吉、毛利は共に誓書を交わした。)中略
四日戌の刻ごろに、森勘八を召し、「夜に入ったら、陣を引き上げるつもりである。そこで勘八はここに残ってもらいたい。なぜなら、信長公切腹の情報が毛利の陣に入るのは時間の問題であろう。そうなれば、毛利は今朝交わしたばかりの誓書を破り捨てることもあろう。だが、この誓書は毛利がそのことを知り前に交わしたものである。表裏は秀吉の方にあるのであって毛利家にはないのである。こうして固めた起請文であるので、秀吉が国元の城に帰城するまで誓書を立てられれば、律儀というべきである」
勘八が敵陣を見る限り、毛利の陣は色立ち、人数が繰り出されているようである。
「夜は留まって、堰をいくつも切ってしまえば、川下田んぼはすぐに海のようになりましょう。毛利軍がこの海を押し渡ろうとしても一両日はかかるでしょう。山の手ではなく、細道の柴人が通う道を通ろうとしても一日に一万繰り出せるとは思えまん」と報告した。
秀吉は「その様子を明日五日の八つ時分まで確かめよ。その様子が見えないようなら早々と引き上げよ」と勘八に告げた。
その夜、暮れの内、戌の刻、備前の宇喜多秀家を先頭に退却した。

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