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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑩

信玄はこのときまでに、遠江の高天神城を降伏させ、掛川城と浜松城の間を分断し、さらに、二股城を落としたことで、浜松城は北と東を封じられることになった。この情勢下で、堀江城攻めを開始したのであった。当時、信玄は駿河・遠江出陣にあたって、海路から...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑨

信玄は二股城の修築と信濃との補給路の整備を行うと、家康の籠る浜松城には向かわずに、軍勢を三河方面に向け、三方ヶ原台地に上がって移動を始めた。家康はこれを見て、武田軍を追撃し、12月12日夕刻両者は激突し、家康は手痛い敗北を喫した。この家康の...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑧

信玄は元亀3年(1572)八月に出陣の予定を進めていたが、病のため、いったん延期することになった。信玄はこの翌年亡くなるが、死因は肺がんとも胃がんとも言われており、このころはすでに末期状態であったことが推定される。まさに、信玄の西上は最期の...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑦

信長と敵対、三方ヶ原合戦へこのころ、信長の度重なる干渉に嫌気がさしていた将軍足利義昭は次第に信長と対立するようになり、ついには信長の排除を画策するまでになっていた。そんな義昭が真っ先に目を付けたのは、武田信玄であった。だが、家康の遠江侵攻へ...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑥

信玄の信長への家康抑え込みは成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊した。家康はこれを機に、謙信と正式に同盟を結んで信玄との関係を完全に破棄することを宣言した。これを知った信玄は謙信の背後を脅かすため、石山本願寺と結...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑤

信長の態度は変わらず、そのため、この信玄の作戦は成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊し、家康はこれを機に、謙信、さらには北条と結んで信玄との関係を完全に破棄する立場を取った。ここに、家康は完全に信玄の敵となった。...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻④

上記の図は、武田氏が駿河の港湾清水に築いた江尻城の図である。武田は駿河に侵攻すると拠点城郭を築いたが、その一つが江尻城で城将は信玄の重臣山形昌景である。丸馬出を効果的に使った武田氏では珍しい海城で、水軍を意識したものであった。残念ながら、現...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻③

武田・徳川同盟は国分け協定を明確に行わず、切り取り次第ということにしたため、次第に双方の主張が異なる事態となり、やがて、両者は敵対することになる。永禄11年(1568)、信玄は7月上杉謙信の拠点北信濃飯山を攻め、加賀越中一向一揆に越後を窺わ...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻②

信玄は重臣で飯富兵部の実弟山縣昌景からの情報で義信の造反をいち早く察知すると、義信を甲斐東光寺に幽閉、義信に付いた家臣たちを処罰することで、事件を未然に防ぎ、義信の妻を今川に送り返し、同盟の破棄を通告した。義信は失意の内に幽閉生活を送り、二...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻①

永禄3年(1560)武田、北条の同盟者で駿河・遠江・三河を領する戦国大名今川義元が尾張の桶狭間で尾張を統一したばかりの新興大名織田信長に討たれるという事件が起きた。義元の後継者氏真は、敗戦後の混乱を乗り越えようと、懸命な努力をしたが、三河で...