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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻④

上記の図は、武田氏が駿河の港湾清水に築いた江尻城の図である。 武田は駿河に侵攻すると拠点城郭を築いたが、その一つが江尻城で城将は信玄の重臣山形昌景である。 丸馬出を効果的に使った武田氏では珍しい海城で、水軍を意識したものであった。 残念なが...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻③

武田・徳川同盟は国分け協定を明確に行わず、切り取り次第ということにしたため、次第に双方の主張が異なる事態となり、やがて、両者は敵対することになる。 永禄11年(1568)、信玄は7月上杉謙信の拠点北信濃飯山を攻め、加賀越中一向一揆に越後を窺...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻②

信玄は重臣で飯富兵部の実弟山縣昌景からの情報で義信の造反をいち早く察知すると、義信を甲斐東光寺に幽閉、義信に付いた家臣たちを処罰することで、事件を未然に防ぎ、義信の妻を今川に送り返し、同盟の破棄を通告した。 義信は失意の内に幽閉生活を送り、...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻①

永禄3年(1560)武田、北条の同盟者で駿河・遠江・三河を領する戦国大名今川義元が尾張の桶狭間で尾張を統一したばかりの新興大名織田信長に討たれるという事件が起きた。 義元の後継者氏真は、敗戦後の混乱を乗り越えようと、懸命な努力をしたが、三河...
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10.30講演会から 川中島海津城と長沼城

武田信玄が川中島の拠点として築いた海津城は今は残っておりませんが、その縄張りは真田氏によって海津城として濃厚に受け継がれています。以下は松代城の絵図です。 城の東と南の虎口に設けられた丸馬出は武田氏の縄張りそのもので、本丸の石垣を除けば、そ...
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10・30講演会より③ 川中島城塞群

一方、武田側から見た犀川の対岸、善光寺の背後には上杉方と思われる山城が善光寺を守るように配置されている。 これらの城を実際に訪れると、海津城の背後を守る武田の城と違ってすべて新たに築かれたものであることが分かる。 謙信は、ここに新たな城を配...
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10.30講演会より②

以下の図は山梨甲府の武田氏館の初期のものとされている図である。 後に甲斐を領地とした徳川氏のもとで改修されたことから、現在は随分様変わりしているが、当初は二つの虎口前面に丸馬出しをもった構造であったとされている。 (この武田氏館図については...
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 10.30歴史講演会「馬出しから何が見えるか」より①

『甲陽軍鑑』巻九で城の馬出を論じた山本勘助の言葉に「馬だしと申すものは、城とりのまなこにて御座候。子細は、城をまかれて候て、城内よりそないをいだすに、あぶなげもなく、また、せめてになり申してとりよせにくく候。」とある。 武田氏の城作りは、何...
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福島正則への論功行賞と薩摩島津攻めの延期

『慶長記』 「今度、忠節によって、福島殿へ安芸・備後両国を遣わされた。その使いには本多忠勝、井伊直政が遣わされた。もし、両国を遣わされたことを不足に思ったらと両人は気を使いながら様子を見たが、正則は思いのほか機嫌がよく、過分に存じ奉るとのこ...
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毛利の領地削減

十月三日、吉川広家は黒田長政を通じ、本家を潰して自分が領地をいただくわけにはいかないから、領地は是非とも輝元へ賜りたいと嘆願した。長政はこれに返書を送った。 「今度のことは、とにもかくにも、井伊直政・福島正則・私の三人にお任せいただきたい。...