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10.30講演会から  

長篠合戦の勝利に勢いづいた家康は、武田方となっていた二股城、犬居城、諏訪原城などを奪還し、信長も美濃岩村城を武田から奪還するのに成功した。 しかし、駿河では武田方の城は相変わらず健在で、遠江高天神城もいまだ武田の手にあった。 一方で勝頼は、...
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10.30講演会から  武田軍の一大拠点三河作手

信玄の跡を受けた勝頼は翌天正2年(1574)が明けると再び遠江・三河に進軍し、途中、織田方の美濃明智城を落とし、6月には遠江高天神城を攻めたが、家康や信長の支援が間に合わず、城は開城し、武田方のものとなった。 高天神城は武田の遠江での一大拠...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑫

ここにおいて、家康の本拠地岡崎と浜松は分断される危機を迎えたが、信玄の病状が悪化したため、武田軍は突如甲府へ帰還することになった。 信玄は陣中て療養することを余儀なくされたが、途中4月信州伊那で病状が悪化し死去した。 家康は辛くも大きな難を...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑪

家康は海上での物資の輸送、さらには信長からの海上からの援軍も阻止され、、援軍や物資は東海道をという陸路を通ることになった。 だが、ここは武田により封鎖される可能性もあった。 ここにおいて、大量の物資を浜松城に運ぶにはもう一つの水運、浜名湖を...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑩

信玄はこのときまでに、遠江の高天神城を降伏させ、掛川城と浜松城の間を分断し、さらに、二股城を落としたことで、浜松城は北と東を封じられることになった。 この情勢下で、堀江城攻めを開始したのであった。 当時、信玄は駿河・遠江出陣にあたって、海路...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑨

信玄は二股城の修築と信濃との補給路の整備を行うと、家康の籠る浜松城には向かわずに、軍勢を三河方面に向け、三方ヶ原台地に上がって移動を始めた。 家康はこれを見て、武田軍を追撃し、12月12日夕刻両者は激突し、家康は手痛い敗北を喫した。 この家...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑧

信玄は元亀3年(1572)八月に出陣の予定を進めていたが、病のため、いったん延期することになった。 信玄はこの翌年亡くなるが、死因は肺がんとも胃がんとも言われており、このころはすでに末期状態であったことが推定される。まさに、信玄の西上は最期...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑦

信長と敵対、三方ヶ原合戦へ このころ、信長の度重なる干渉に嫌気がさしていた将軍足利義昭は次第に信長と対立するようになり、ついには信長の排除を画策するまでになっていた。そんな義昭が真っ先に目を付けたのは、武田信玄であった。 だが、家康の遠江侵...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑥

信玄の信長への家康抑え込みは成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊した。 家康はこれを機に、謙信と正式に同盟を結んで信玄との関係を完全に破棄することを宣言した。 これを知った信玄は謙信の背後を脅かすため、石山本願寺...
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10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑤

信長の態度は変わらず、そのため、この信玄の作戦は成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊し、家康はこれを機に、謙信、さらには北条と結んで信玄との関係を完全に破棄する立場を取った。 ここに、家康は完全に信玄の敵となった...