ブログ 10・30講演会より 秀吉の城 大坂城 以下は大坂冬の陣の時の大坂城とされている図である。 図はやや模式図的になっているが、秀吉が晩年大坂城に新たに築いた城を囲む惣構えと二の丸に設けた複数の馬出曲輪が描かれている。秀吉は晩年、大坂城にこの馬出曲輪と惣構えを構築したとされている。大... 2023.01.12 ブログ
ブログ 10・30講演会より 秀吉の城 聚楽第 秀吉は生涯に多くの城を築いているが、ここでは代表的な二つの城を見てみよう。以下は、今は地上から完全に消滅した京都聚楽第の図である。この城は秀吉が関白になるに及んで、京都に関白公邸として築いたものである。秀吉は、関白である一方で武家でもあった... 2023.01.08 ブログ
ブログ 10.30講演会から 武田家滅亡④ 高天神の籠城衆は最後まで勝頼の援軍を待っていたが、3月、ついに城を出て徳川軍と戦いことごとく壮絶な討ち死にを遂げ、城は落城した。ここに家康は高天神城を奪還することに成功し、家康は遠江から武田勢力を駆逐し、遠江を手にした。この高天神城救援の失... 2023.01.05 ブログ
ブログ 10.30講演会から 武田家滅亡③ 危機感を覚えた勝頼は北条領に近い駿河沼津に三枚橋城を築き、北条に対抗したが、北条氏も同じく駿河の清水に泉頭城を築いてこれに備えた。勝頼は常陸の有力大名佐竹氏を介して信長と和議の交渉をしたが、信長はこれに応じることはなかった。天正8年(158... 2023.01.01 ブログ
ブログ 10.30講演会から 武田家滅亡② 当時、武田氏は北条氏と同盟を結んでおり、北条氏としては、武田氏は景虎を支援するであろうと考えていた。もし、武田が北条方につけば、景勝の勝利はなくなる。景勝もそれだけは阻止しなければならなかった。武田の不運はこの両者の思惑の深い争いに巻き込ま... 2022.12.28 ブログ
ブログ 10.30講演会から 武田家滅亡 しかし、家康は長篠の合戦から三年後の天正6年(1578)3月大井川を越えて武田方の田中城の外曲輪を破り、8月小山城を攻めるなど攻勢に転じ、武田にゆさぶりをかけた。これに対し、勝頼も横須賀城まで迫り、家康を牽制した。この後も、武田と家康の間で... 2022.12.25 ブログ
ブログ 10.30講演会から 長篠合戦の勝利に勢いづいた家康は、武田方となっていた二股城、犬居城、諏訪原城などを奪還し、信長も美濃岩村城を武田から奪還するのに成功した。しかし、駿河では武田方の城は相変わらず健在で、遠江高天神城もいまだ武田の手にあった。一方で勝頼は、敗戦... 2022.12.22 ブログ
ブログ 10.30講演会から 武田軍の一大拠点三河作手 信玄の跡を受けた勝頼は翌天正2年(1574)が明けると再び遠江・三河に進軍し、途中、織田方の美濃明智城を落とし、6月には遠江高天神城を攻めたが、家康や信長の支援が間に合わず、城は開城し、武田方のものとなった。高天神城は武田の遠江での一大拠点... 2022.12.19 ブログ
ブログ 10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑫ ここにおいて、家康の本拠地岡崎と浜松は分断される危機を迎えたが、信玄の病状が悪化したため、武田軍は突如甲府へ帰還することになった。信玄は陣中て療養することを余儀なくされたが、途中4月信州伊那で病状が悪化し死去した。家康は辛くも大きな難を逃れ... 2022.12.16 ブログ
ブログ 10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑪ 家康は海上での物資の輸送、さらには信長からの海上からの援軍も阻止され、、援軍や物資は東海道をという陸路を通ることになった。だが、ここは武田により封鎖される可能性もあった。ここにおいて、大量の物資を浜松城に運ぶにはもう一つの水運、浜名湖を使う... 2022.12.13 ブログ