10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑨

信玄は二股城の修築と信濃との補給路の整備を行うと、家康の籠る浜松城には向かわずに、軍勢を三河方面に向け、三方ヶ原台地に上がって移動を始めた。
家康はこれを見て、武田軍を追撃し、12月12日夕刻両者は激突し、家康は手痛い敗北を喫した。
この家康の出陣については、通説では信玄が自分の領地を我が物に顔で通過するのを見過ごせば後世の笑いものになるというのが理由であったとされてきた。
これは『三河物語』にある話で、家康が信玄に対して何もしなければ、遠江はもちろん三河の国衆らも武田側に寝返ることになるため、家康は信玄に一矢報いるために出陣したというのがこれまでの通説の理解であった。
しかし、最近の説では、これに対して疑問が持たれている。
武田研究の第一人者平山優氏は『武田氏研究』の中で以下のような興味ある説を述べている。
信長について詳細な記録を残している『信長公記』では、「武田信玄堀江の城へ打ち廻らせ相働き候、家康も浜松の城より御人数出だされ、身方が原にて足軽共取り合い」とあり、これによれば、三方ヶ原の合戦は信玄が浜名湖湖畔にある堀江城を攻撃したため、家康が浜松城より軍勢を出したことから起こった合戦であるというのである。
堀江城という城は家康にとってどういう役目を持った城なのか、それを信玄に攻められたことがどのような不利な状況になるのか、ここに今まで全く違った視点から三方ヶ原合戦を考えなければならんくなった。
家康はこの城が攻められたことに大きな危機感を覚え、浜松城から信玄の動きを阻止するために三方ヶ原に兵を出し、そこで合戦になったというのが真相のようである。
家康は通説に言われるように、決して、武士の意地や、信玄におびき出されて兵を出したわけではなく、信玄の堀江城攻めを阻止するために兵を出したのであった。

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