10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑦

信長と敵対、三方ヶ原合戦へ
このころ、信長の度重なる干渉に嫌気がさしていた将軍足利義昭は次第に信長と対立するようになり、ついには信長の排除を画策するまでになっていた。そんな義昭が真っ先に目を付けたのは、武田信玄であった。
だが、家康の遠江侵攻への意思は強く、その結果、必然的に信玄を敵とするに至った。
そして、信玄がそれに対して信長に何度も家康に意見するよう要請しても、信長は動く気配がないばかりか、家康に援軍まで派遣する始末であった。
信玄は、家康を敵にする以上、その背後にいる信長も同時に相手にしなければならないことを覚った。
義昭からの誘いは、まさに信長と手切れをするまたとない好機であった。
ただ、信玄は信長に北条氏との同盟が成ったことを伝え、家康の言葉を真に受けないように、さらには、謙信が信長を通じて「甲相越の和睦」を懇願しているようだが、自分はこれを受けないことを明言し、一方で、本願寺に対しては信長に対抗するよう要請している。
ここにおいて、将軍義昭の画策で、本願寺・浅井・朝倉・延暦寺・武田の反信長勢力が立ち上がることになった。
信玄はこの反信長勢力を背景についに元亀3年(1572)家康・信長に対して兵を挙げることを決意した。

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