10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑩

信玄はこのときまでに、遠江の高天神城を降伏させ、掛川城と浜松城の間を分断し、さらに、二股城を落としたことで、浜松城は北と東を封じられることになった。
この情勢下で、堀江城攻めを開始したのであった。
当時、信玄は駿河・遠江出陣にあたって、海路からの攻撃も視野に入れていた。
すなわち、武田水軍に遠州灘の制海権を奪わせる作戦をも立てていたのである。
武田水軍の構成はもともと今川家の水軍であった岡部水軍、伊勢の水軍が中心であり、彼らは信玄の命を受け、この合戦で遠州灘に出没し、渥美半島を攻撃し、家康への物資の海路からの補給を断つ作戦に出た。
武田水軍は安宅船で、鉄砲を備えた本格的な大型軍船で、家康の水軍よりははるかに優り、このとき、田原城を攻撃し、放火している。
この翌年、家康の船が遠州灘今切沖の武田方兵糧船を攻撃したが、船に装備された鉄砲でさんざんに撃たれ、近づくことも出来なかったというから、いかに武田の船が強力だったかが分かる。
この状況により、家康は海上での物資の輸送、さらには信長からの海上からの援軍も阻止されることになった。

以下の城はこの戦いより後、勝頼の代に駿河の海沿いに築かれた沼津城である。ただし、現在は存在していない。
先の江尻城同様武田氏にとって海、駿河湾の制海権は重要であった。
武田の優れた縄張りが生かされた城であった。

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