10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑪

家康は海上での物資の輸送、さらには信長からの海上からの援軍も阻止され、、援軍や物資は東海道をという陸路を通ることになった。
だが、ここは武田により封鎖される可能性もあった。
ここにおいて、大量の物資を浜松城に運ぶにはもう一つの水運、浜名湖を使うしかなかった。
浜名湖湖畔には家康方となっている宇津山城、浜名城、刑部城などの城が随所に築かれ、それらはネットワークを構成していた。
そして、浜名湖経由の物資が最後に集積する場所が堀江城であった。
信玄は堀江城を攻撃することで、浜名湖水運そのものを阻止し、浜松城への物資の輸送を完全に止める作戦に出たのであった。
浜松城への物資を止められれば、家康は万事休すの状態となる。
家康としては、何としても堀江城への信玄の攻撃を阻止し、物資の補給路を確保しなければならない。
こうして起こった合戦が三方ヶ原の合戦であったというのである。
合戦の結果は家康の惨敗で、遠江、三河の家康の領国は大きな危機に立たされることになった。
信玄は戦の翌日から再び堀江城を執拗に攻めた。
だが、強風に煽られたため、城攻めを断念し、浜名湖に近い刑部で越年し、浜名湖水運に睨みをきかせた上で、浜松城を孤立させる作戦を続けた。
そして年が明けた元亀4年(1573)1月、信玄は刑部を発ち、家康の本国三河に進軍し野田城を落とし、これを普請すると長篠城へ入った。
以下は長篠城の図である。
図では見えにくいが、武田はこの城を丸馬出を備えた城に普請・改修した。

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