10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑤

信長の態度は変わらず、そのため、この信玄の作戦は成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊し、家康はこれを機に、謙信、さらには北条と結んで信玄との関係を完全に破棄する立場を取った。
ここに、家康は完全に信玄の敵となった。
永禄12年(1569)1月、北条氏政は駿河に今川救援の兵を出し、興津で武田信玄と対峙した。
北条の背後には北条の要請を受け、信濃から信玄の背後を突こうとしている上杉謙信の影があった。窮地を察した信玄は織田信長に武田と上杉の和睦を要請した。
しかし、北条も一歩も譲らず、3月、駿河薩埵(さった)峠の合戦でついに武田軍を打ち負かし、武田は駿河から兵を退くことになった。さらには、6月、ついに信玄の恐れていた北条と上杉の同盟「越相同盟」が成立し、両者は力を合わせて信玄に当たることになった。
このままでは駿河侵攻は危ういと見た信玄は八月、甲府を発ち、武蔵、相模の北条領に兵を出し、武蔵滝山城を攻めて、周辺の村や城下を放火し、10月には小田原城を包囲、退却時には三増峠で追撃してきた北条軍を破り、武田の力を見せつけた。
その上で、12月駿河に出兵し、駿府を再び占領した。駿河で年を越すと、翌年元亀元年2月、駿河清水港に江尻城を築き、一度甲府に帰るが、再び、駿河に出陣、北条と駿河吉原、沼津で戦い、その後、伊豆韮山城を攻めると、今度は武蔵に転戦し、北条方の城を攻めるなど北条攻めに徹した。

以下の図は、武田氏が駿河に築いた田中城の図である。
これは、江戸時代の図であるが、まさに、武田の築城術が網羅されていたことが分かる。

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