10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻④


上記の図は、武田氏が駿河の港湾清水に築いた江尻城の図である。
武田は駿河に侵攻すると拠点城郭を築いたが、その一つが江尻城で城将は信玄の重臣山形昌景である。
丸馬出を効果的に使った武田氏では珍しい海城で、水軍を意識したものであった。
残念ながら、現在は跡形もなく、残っていたら名城であったことは間違いない。

さて、家康の盟約違反を知った信玄は織田信長に対して抗議の書状を送り、家康が再び今川・北条と手を切るよう催促してほしいと述べた。
信玄は家康を抑えるには、信長の力を借りるしかないという認識を持っていた。
また、同時期に信長に送った別の書状でも、今は信長に頼るしかないと述べており、北条と上杉の同盟、さらには家康の離反に強い危機感を覚えていたことが分かる。
この背景には、信長と足利義昭が武田、上杉和睦交渉の仲介をするという話が持ち上がっていたこともある。
信玄の駿河・遠江侵攻の前にはこうして大きな壁が立ちはだかろうとしていた。
信玄がこの時点で最も危惧するのは、北条と同盟した家康が北条氏を使って信玄の背後を脅かし、信玄の足止めをし、その間に駿河に乱入することであった。
信玄はそれを防ぐために信長に家康の盟約違反を訴え、信長に家康の行動を抑え込ませようとしたが、そこには、家康と信長の関係は従属関係であるとの信玄の思い込みがあった。
信長の立場としては、家康の行動はあくまでも独立した大名としてのものであり、同盟者としてそれを認めるのが筋であり、信玄の要求には応えられるはずはなかった。

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