10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻③

武田・徳川同盟は国分け協定を明確に行わず、切り取り次第ということにしたため、次第に双方の主張が異なる事態となり、やがて、両者は敵対することになる。
永禄11年(1568)、信玄は7月上杉謙信の拠点北信濃飯山を攻め、加賀越中一向一揆に越後を窺わせ、謙信を越後に釘付けにすると、12月駿河に侵攻した。
今川氏の本拠駿府を占領し、今川氏真を掛川城に追い、家康に掛川城を攻めるよう要請した。
このとき、信玄は掛川城包囲陣で家康と対面したいと述べるなど、家康と信玄とは友好関係を保っていた。

疑心暗鬼の家康
だが、この永禄11年(1568)12月に信玄の重臣秋山虎繁が信州伊奈方面から遠江に侵攻し、そこで徳川の兵と小競り合いになるという事件が起き、家康はこれを信玄の盟約違反として信玄に抗議した。
事実は、秋山の不手際であり、信玄の命令ではなかったが、家康はこのことで信玄に大きな不信感を持つに至った。
抗議を受けた信玄はここでの家康との手切れは家康を不用意に敵に回すだけだと判断し、謝罪し、秋山を本隊と合流させると家康に約束した。
だが、家康は信玄への疑心を払拭できず、翌永禄12年(1569)5月、家康は信玄に人質となっていた酒井忠次の娘を返還させ、自身は信玄と敵対する北条氏康・氏政の要請を受け入れ、今川氏真と講和して掛川城を受け取る代わりに、氏真を海路で北条領に脱出させることを認めた。
家康は今川・北条とは結ばないという信玄との協定を自ら破ってしまったのである。
信玄にとっては思いもかけないことであった。

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