10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑫

ここにおいて、家康の本拠地岡崎と浜松は分断される危機を迎えたが、信玄の病状が悪化したため、武田軍は突如甲府へ帰還することになった。
信玄は陣中て療養することを余儀なくされたが、途中4月信州伊那で病状が悪化し死去した。
家康は辛くも大きな難を逃れることができた。
この間、信玄は本願寺顕如は朝倉氏に再出馬の要請を行うよう指示し、将軍足利義昭も京都で反信長の兵を挙げたが、信玄の死によって信長包囲網も崩壊することになった。
そして、義昭は京都から追放され、毛利を頼って備後へと落ちていった。
信玄の死に伴って九死に一生を得た家康は、信玄に奪取されていた遠江と三河の城の奪還を目指し、信玄の死から四ヶ月後の天正元年(1573)八月、武田方になっていた三河長篠城を包囲した。
この報を受けた勝頼はすぐに援軍を派遣したが、間に合わず、九月に城は落城。武田は三河の重要拠点を失うことになった。

以下は信玄が落とし、改修した野田城の図である。
武田氏はこの城を普請し、虎口に丸馬出を配した。
長篠城、野田城を信玄に取られれば、岡崎城と浜松城は分断され、家康は絶体絶命の危機にさらされ続けたことであろう。
信玄の死は家康にとって幸運すぎるほどの出来事であった。

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