10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑥

信玄の信長への家康抑え込みは成功せず、さらには足利義昭の仲介で一時成立した謙信との和睦も崩壊した。
家康はこれを機に、謙信と正式に同盟を結んで信玄との関係を完全に破棄することを宣言した。
これを知った信玄は謙信の背後を脅かすため、石山本願寺と結び、さらには北条領の駿東郡に攻め入り、12月、北条氏の城、興国寺城、深沢城を攻め、さらなる攻勢に出た。

北条氏、再び信玄と同盟す
元亀2年(1571)1月再び深沢城を攻めた信玄は2月家康を脅かすため、遠江に兵を進め、3月には遠江中央部にある要衝高天神城を攻め、4月には三河に攻め入り、家康の東三河の拠点吉田城を攻め、家康軍と二連木で戦い、これを破った。
信玄の勢いは少しも衰えてはいなかった。
家康はあらためて武田の底知れない強さを感じたことであろう。
さらに信玄は9月には関東武蔵の秩父に兵を進めた。
信玄に度々領地を脅かされた北条氏は上杉謙信に対し何度も信玄の背後を突くよう要請していた。
たが、謙信自身も背後を一向一揆や越中の神保氏らによって脅かされ、動くことなど出来なかった。
信玄の政治力の勝利であった。
ここに北条氏は信玄の政治力と強さをまざまざと見せつけられた。
謙信の行動に業を煮やした北条氏は謙信との同盟を破棄し、再び信玄との同盟復活に踏み切った。
信玄を敵に回すことの不利を悟った結果であった。元亀2年(1571)12月のことであった。
ここに、信玄は北条氏と力を合わせて再び謙信と戦うことになり、翌元亀3年1月関東西上野に出陣し、利根川を挟んで謙信と対峙した。

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