10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻⑧

信玄は元亀3年(1572)八月に出陣の予定を進めていたが、病のため、いったん延期することになった。
信玄はこの翌年亡くなるが、死因は肺がんとも胃がんとも言われており、このころはすでに末期状態であったことが推定される。まさに、信玄の西上は最期の命を賭けてのものであった。
同年九月、重臣の山縣昌景が先鋒として出陣し、信玄本隊は10月に出陣した。
このとき、信玄は越前の朝倉、近江の浅井に出陣を告げ、共に信長に当たるよう要請した。
信玄は信州伊奈から遠江に入り、内通していた犬居城の天野景資(かげつら)の案内で遠江中央部に進み、一言坂で家康と対陣した。
家康は正面から戦うことの不利を覚り、浜松城に退いた。
先発の山縣隊は東三河を経由して遠江に入り、信玄本隊と合流すると家康方の拠点遠江二股城を包囲してこれを落とした。
家康は信長に援軍を要請していたが、これが遅れ、結果的に二股城の救援に失敗した。
この信玄の勢いに遠江の国衆たちは続々と信玄に寝返っていった。
信玄はこの様子を越前の朝倉氏に報告し、来年5月には出陣するよう要請を行った。

その上で、信玄は家康が籠る浜松城の西の三方ヶ原台地に兵を進めていった。

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