ブログ

新府城崩壊

勝頼は、新府の城を出て行くに際して、城に火をかけた。自らが丹精込めて築き上げた城に火を放つ彼の心情はいかばかりであったろう。勝頼はこの後、重臣の郡内(山梨県)大月の小山田氏を頼っていくが、そこでも小山田氏に裏切られ、終には田野の山中にまで織...
ブログ

守る兵のいない新府城

新府城は要害である七里ヶ岩の台地上に築かれた武田館でもあった。しかし、勝頼が夢見ていた新たな都は実現しなかった。城、その外郭は大量の兵がいればこそ機能する軍事施設であった。城が一応の完成を見たころ、織田信長は武田討伐を進めるにあたって、武田...
ブログ

躑躅ヶ崎館と酷似していた新府城本丸

勝頼が、もし外郭を築いていなかったとすれば、勝頼は無駄に長い期間をかけて使えない無駄な城を築いた愚将ということになる。私が先に甲州流軍学者たちのこだわりといったのはまさにこのことである。彼らは、外郭をあくまでも勝頼の築城と解釈したがゆえに絵...
ブログ

新府城外郭の意味

勝頼が新府城に外郭を築いたか築かないか,それによってその後の彼に対する解釈が大きく変わってくる。もし、勝頼が外郭を築いていたとしたら、勝頼はまさにここに甲府に変わる高い防衛機能をもった本格的な城下町を建設しようとしていたことになる。甲府は背...
ブログ

新府城外郭を築いたのは誰か?

私はこの巨大な外郭を自らの足で歩いてみて、そこから城にかけた勝頼の強い思いが伝わってくる気がした。しかし、現在、この外郭を徳川家康が築いたという議論が研究者の間でなされている。というのは、家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』等に家康が北条...
ブログ

今も残る新府城の外郭

新府城は当時の記録によると天正九年二月に普請を開始し、その一応の完成をみたのは十月であり、工事期間は実質八ヶ月という突貫工事で進められたという。だが、城が未完成というわりには、昼夜を問わずの突貫工事で八ヶ月も要している。これはいったい何を意...
ブログ

軍学者の解釈

城絵図というのは、単にそこに残っている遺構をただ機械的に筆記すればすむというわけではない。そこでは、どう城の構造を読み取るか、築城者の意図をどう解釈するかという謎解きにも等しい作業が要求される。その意味で完成した城絵図は、彼ら軍学者の力量を...
ブログ

戦国の城の外郭

外郭というのは、城の最も外側に築かれた防衛施設で通常は高い土塁、石垣や深い堀が構えられ敵を容易に寄せつけない構造になっている。そこでは敵の大軍を想定し、外郭で敵を防ぎ、城中に一兵たりとも入らせない構えでもある。また、外郭は城下町の外側に築か...
ブログ

浅野文庫にある「甲斐新府城」図と池田文庫の図

以下に見るように『浅野文庫』所蔵の図には大地を横断するように築かれた外郭がはっきりと描かれています。以下は池田文庫の図ですが、外郭は描かれておりません。
ブログ

甲州流軍学者たちのこだわり

城絵図の作成にあたっては、軍学者自らが実際に戦国時代の城跡に赴き、実地調査をして完成させたようで「古城平山城ナリ今ハ竹林ニテ」とか「昔ハ城ノ左右深田ニテ」などの注記が所々に見える。 彼らは、この絵図の作成を命じた藩主の意図に沿うようにていね...