躑躅ヶ崎館と酷似していた新府城本丸

勝頼が、もし外郭を築いていなかったとすれば、勝頼は無駄に長い期間をかけて使えない無駄な城を築いた愚将ということになる。
私が先に甲州流軍学者たちのこだわりといったのはまさにこのことである。
彼らは、外郭をあくまでも勝頼の築城と解釈したがゆえに絵図に明確に記載したのである。
勝頼は新府城に入城するにあたって、輿車や馬の鞍に金銀を鏤め、たくさんの騎馬武者を従えたという。
まさに、それは勝頼の新たな都への入城の儀式であった。
さらには、未練を残さぬよう躑躅ヶ崎館の建物は取り壊し、代々伝わる庭の松の木までも切り倒したという。ここにも、勝頼の新府城への移転に対する並々ならぬ決意のほどがしのばれる。
また、新府城の本丸と二の丸は武田氏の本拠躑躅ヶ崎館と酷似していることが指摘されており、城の中心部は館造りとなっていたことが指摘されている。

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