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『諸国古城之図』の意図

『諸国古城之図』が編纂された時期は広島藩第七代藩主浅野重晟(しげあきら)の治世中、明和二年(一七六五)から寛政十一年(一七九九)と推定され、その当時は、大規模な開発行為が行われた現代とは違い、まだかなりの数の戦国の城跡が残っていたものと思わ...
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『浅野文庫諸国古城之図』

しかも、上杉家の後継争いでは、同盟者であった北条氏を支持しなかったため、それが原因で北条氏との同盟も破棄されてしまう結果になった。北条と上杉をはかりにかけたとき、今や上杉家は謙信時代とはほど遠い一地方勢力となり下がり、それは北条家との比では...
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高天神城の落城

高天神城はこれまで遠江の徳川領の中で、六年間、孤立しながらも何とか命脈を保ってきていた。さらに、城を守っていたのは、甲斐・信濃という武田氏の領国より集められていた直属の兵であった。それが分かっていたからこそ、勝頼はこれまでは何度も援軍に駆け...
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四面楚歌の勝頼

新府城を築いたころの勝頼は、織田信長・徳川家康はいうまでもなく関東の北条氏までも敵に回すという四面楚歌状態であった。勝頼は天正三年(一五七五)長篠の合戦で信長とぶつかり、そこで信玄以来の名だたる家臣を死なせ大敗していた。だが、武田家はそれが...
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「甲斐新府城」

一幅の城絵図がある。それは、江戸時代に作成された古絵図で、鮮やかに施された彩色が今も色あせることなく残っている。古図は台地の南方に周囲を山に囲まれた一つの城を描いている。 その城絵図は『浅野文庫諸国古城之図』という城絵図集に収められているも...
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彦根山は佐和山以上の霊山

さらに、観音寺は古くから石田家と深いかかわりがあったことが分っている。文明年間(一四六九~一四八七)の観音寺文書にはすでに三成の先祖と見られる「石田式部」の名が見られ、石田家は観音寺の有力な檀那であると考えられている。つまり、石田家はかなり...
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佐和山と修験信仰

佐和山が修験者の聖地ともいうべき山であったとしたら、佐和山に城を築くということは、そこが単に要害の地であるというだけでなく、その山のもつ霊力というか宗教的な力で守られるという要素もあったろう。それだけでなく、修験者、山伏は関所の通行の自由を...
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佐和山は聖なる山であった?

石田三成の佐和山城はそれら多くの寺院・仏閣と共存していた。もちろん、それは石田三成自身が京都大徳寺に三玄院を建立したり、佐和山城内に瑞嶽寺を建てるなど信仰の厚い人物であったことも関係してはいようが、それだけの理由であったのだろうか。平安・鎌...
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寺院・仏閣と共存していた佐和山

近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。いったい、なぜ、井伊家は自らが破壊した佐和山城跡の詳細な絵図を所蔵していたのか、その理由は判然とはしないが、その中の一枚の絵図を見て感じることは、佐和山城があった佐和山にはかつて神...
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彦根山は信仰の山

彦根山は当時有名な霊場として知られており、山上山下には、門甲寺、彦根寺、石上寺などの有名な寺院が軒を並べて建っていた。これらの寺院、特に彦根寺は遠く平安時代から京にまで知られた霊所で、京都から公家貴族が参拝にくるほどの有名な霊場であった。こ...