戦国の城の外郭

外郭というのは、城の最も外側に築かれた防衛施設で通常は高い土塁、石垣や深い堀が構えられ敵を容易に寄せつけない構造になっている。そこでは敵の大軍を想定し、外郭で敵を防ぎ、城中に一兵たりとも入らせない構えでもある。
また、外郭は城下町の外側に築かれ、城下町を守る防衛施設でもあった。
その起源は古くは古代の中国にまでさかのぼるが、戦国時代も本城には町を守る外郭が築かれることが多かった。
戦国時代の城の外郭としては、北条氏の小田原城のものが有名で最盛時には現在の小田原市をすっぽりと囲むほどの巨大な外郭が築かれていたことはよく知られている。
豊臣秀吉は小田原城を十数万の大軍で攻めたが、ついにその外郭を破ることはできなかった。小田原城は結果的に開城はしたが、それは政治的な駆け引きに敗れたからで城そのものはほとんど無傷のままであった。
また、徳川家康も大坂の陣で二十万といわれる大軍で大坂城を包囲したが、秀吉が築いた巨大な外郭に阻まれて城を攻めることができずに、結局は講和に持ち込み、外郭を破壊し堀を埋めている。
このように、城の外郭は攻める側にとってはやっかいなものでそれがあれば城を容易に落とすことなどできない。
甲州流の軍学者たちは、新府城をそのような外郭をもった城であると読み取ったのであり、私はここにそんな彼らのこだわりをみる。

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