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作手村城塞群主要縄張図(『戦国武田の城』洋泉社より)

上から「古宮城」「賽の神城」「文珠山城」の縄張図です。これだけの優れた縄張りを持った城が、作手村という狭い地域に集中して築かれています。全国的にみても、このような場所は珍しいのではないでしょうか。
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武田流築城術を色濃く伝える作手村城塞群

作手村の中で最も色濃く武田氏の築城を伝えているのは何といっても古宮城である。古宮城は奥平氏の居城亀山城の北、国道三〇一号線沿いにあるこんもりとした比高二十五メートルほどの小山に築かれた城で、南北二〇〇メートル、東西二五〇メートルの堂々たる規...
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徳川一門並となった奥平氏

『当代記』の天正元年八月の項によれば、奥平貞能は脱出するにあたって、早朝、密かに家中の者を集め、家康はそこに援軍を送り、無事に作手を脱出したようである。この奥平貞能はその後家康から長篠城を任され、天正三年(一五七五)、勝頼の猛攻に耐え、城を...
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武田を捨て、徳川に付いた作手亀山城主奥平氏

天正三年(一五七四)四月、勝頼率いる武田軍は再び三河へ侵攻し、三河野田城(新城市)を攻め、二連木城を開城させ、徳川家康の三河支配の拠点であった吉田城(豊橋市)まで兵を進めた。これに対して、家康は自ら出陣をしてきたが、武田軍を突破できず、吉田...
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作手を兵站基地とした武田氏

『当代記』の同年四月の項には、「長篠在番中、作手へも人数をやり普請」とあり、八月の項には「作手城には信州衆を在番させ」「作手城に後詰めのため、土屋右衛門をはじめ三千余り、相移る」との記述がある。 ここから、信玄の三河侵攻にあたって、作手の地...
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作手奥平氏の苦悩

元亀元年(一五七〇)七月、信玄の重臣秋山信友は三河に侵攻し、作手奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏、いわゆる山家三方衆を降伏させた。ただ、その中にあって作手奥平氏は武田氏に最後まで抵抗したという。これには、武田に人質を送りそれに従おうとする当主奥平...
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作手奥平氏

この作手の地はもともとは三河奥平氏の本拠地であり、奥平氏は初めは作手の川尻城を本拠としていたが、後に亀山城を築いてそこに移り、居城としていた。 また、そこにあった他の城ももとは奥平氏に関係したものであったのだろう。 しかし、そのどれもが武田...
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武田軍の一大駐屯基地作手村

斎藤さんは、我々を部屋に案内すると、待っていたように、さっそく、彩色鮮やかな城の古図を見せてくれた。斎藤さんは、作手村にあるいくつかの城が「浅野文庫諸国古城之図」に収められていることを知り、その実物を見るために広島まで出かけていき、撮影許可...
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『浅野文庫』に描かれた作手村城塞群

『浅野文庫』には以下の古図が掲載されており、しかも、どれも、その城跡が今もしっかりと残っております。一つの村、しかも狭い範囲にこれだけの武田系城郭があるというのは、まさにここが三河侵略の武田方拠点であったことがうかがえます。全国的に見ても、...
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山中にあった武田軍の一大駐屯基地(作手村城塞群)

もう30年近く前になろうか、私は城郭研究家の中田正光先生と武田信玄、勝頼の遠江(愛知県東部)の城を追って、愛知県の山深き設楽郡作手村(現在は新城市作手)までやってきていた。 作手村は周囲を低い山々に囲まれた田園風景あふれる自然豊かな村で、恐...