新府城外郭の意味

勝頼が新府城に外郭を築いたか築かないか,それによってその後の彼に対する解釈が大きく変わってくる。
もし、勝頼が外郭を築いていたとしたら、勝頼はまさにここに甲府に変わる高い防衛機能をもった本格的な城下町を建設しようとしていたことになる。
甲府は背後を要害山城という大きな山城によって守られていた町であり、勝頼はその要害山城をさらに堅固に普請し、さらには、その南の山に新城を築くなど、甲府の防衛機能を高める努力をしてきたが、信長というこれまでにない大敵を迎えるにあたって、甲府を敵から守ることは難しいとの判断をしたものと思われる。
そこで、韮崎七里ヶ岩という切り立った比高差129メートルの自然の要害台地の上に新たな城を築き、台地を横断する堀を掘って、それを外郭とし、この外郭の内にいずれは甲府の町、つまり甲斐の都をそっくり移転する構想だったのではなかろうか。中田正光氏によれば、このとき、要害山城も新府城の詰めの城とする構想だったという。(『戦国武田の城』)
外郭の構築は、当然、そこでは織田信長との再びの決戦を意識したものということになろう。

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