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岡山の普請工事を行わなかった徳川軍

岡山をぐるりと取り囲む福島正則、池田輝政、黒田長政らの強力な布陣は三成方にとって大きな脅威であり、岡山に対してそうやすやすと手を出せる状況にはなかった。しかし、三成の9月12日付の増田長盛宛の書状によれば、岡山の徳川勢は布陣して以来、そこに...
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「要害もなき陣所」

『黒田家譜』に「要害もなき陣所に、八月二十二日より九月十四日まで、二十余日対陣し」とあり、岡山の陣所には要害性がないことが認識されていたことが分かる。家康がこの岡山に到着するのは、関ケ原合戦の前日9月14日の正午ごろである。その日までは、徳...
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要害性のない家康の本陣岡山

慶長5年(1600)8月23日、岐阜城が福島正則、池田輝政ら徳川方の軍勢によって陥落した。徳川軍は、そこからさらに兵を進め、翌24日、大垣城の北西約4キロ、美濃赤坂にある標高53mの低山、岡山及びその周辺に陣を布いた。この時点で家康はまだ江...
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福島正則軍を阻んだ宇喜多陣の土塁

土塁上には柵などが設けられていたと思われ、敵方に向かって大きな脅威を与えたことであろう。この土塁は東西方向だけでなく、南北にも東山道を挟んで432メートルもの長さを有していた。(東限の土塁)。ただ、南北の土塁は東山道にぶつかる地点にかつて「...
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不破の関の土塁で守られていた宇喜多秀家の陣

関ケ原での合戦を想定した三成は不破の関北限の土塁460メートルとそこから南北に432メートル続く東限の土塁を宇喜多秀家の陣所の防衛線として利用したものと推定される。豊臣家の大老備前中納言宇喜多秀家は秀吉の養子で、毛利輝元と並ぶ石田方の中心勢...
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古代から残る不破の関の土塁を利用した宇喜多陣

関ケ原の宇喜多秀家陣跡には壮大で強固な防衛ラインが今も残っている。それは、宇喜多陣の前面(南面)を防衛している土塁のラインである。この土塁がすごいのは、基本的には、古代から存在していたものを利用していることである。関ケ原には、奈良時代、東山...
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石田三成が用意した城塞

立地から見れば、玉の城山に築かれたこの城は関ヶ原合戦に関係した石田三成方の城郭遺構であるように思われるが、徳川軍との間で攻防戦が繰り広げられたような記録や言い伝えなどは一切ないことから、この城は当時も使われずに、そのまま放置された形で今日ま...
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玉の城山は一気に築かれた陣城

玉の城山は、かつて太平洋戦争時代、高射砲が運び込まれるにあたって、城内への道が広げられたり、破壊されたようである。そのため、かつてはあったと思われる大手の虎口も破壊されてしまったようで、今ははっきりしない。大手虎口と思われる場所は今も一部堀...
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関ケ原に残るもう一つの陣城

(玉の城山遠景)関ケ原には、松尾山城の他にもう一つ新たに築かれたと思われる陣城の遺構がある。それは、関ケ原の西、「玉」の集落から2キロ半ほど東の奥に入ったところに地元で「玉の城山」と呼ばれる標高307.5メートルの山上に築かれている城である...
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小早川・脇坂は運命共同体

14日以前に井伊、本多に起請文を出し、東軍に付くことを決めていた小早川の重臣たちが彼らから事前に脇坂のことを伝えられていたとしたら、松尾山こそは山上の小早川勢と山麓の脇坂勢の両者が一体となって動くことができる唯一の場所であった。先にも述べた...