不破の関の土塁で守られていた宇喜多秀家の陣

関ケ原での合戦を想定した三成は不破の関北限の土塁460メートルとそこから南北に432メートル続く東限の土塁を宇喜多秀家の陣所の防衛線として利用したものと推定される。
豊臣家の大老備前中納言宇喜多秀家は秀吉の養子で、毛利輝元と並ぶ石田方の中心勢力であり、戦場には1万7千の大軍勢を率いていた。
その陣所は何より要害堅固で大軍を収容する広さが必要であったことはいうまでもない。
ただ、現地を見ると、宇喜多の陣所は当時の土塁をそのままそっくり利用したわけではないことが分かる。
土塁は途中から二重になっており、合戦に備えて強化されていたことが分かる。
土塁の西端は藤古川岸にぶつかるところで消滅するが、川岸に沿ってそこから北上すると天満山から下りてくる土塁とぶつかる。
ここから、天満山からの土塁は藤古川岸を通して南北の土塁につながる一つの壮大な防衛ラインとなっていたことが分かる。
現在残る土塁は少し崩れてはいるものの、高さは約2メートル、基底部の幅は約5~6メートルほどの規模である。
当時の高さは倍の4メートルくらいはあったのではなかろうか。
(天満山に続く土塁)

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