要害性のない家康の本陣岡山

慶長5年(1600)8月23日、岐阜城が福島正則、池田輝政ら徳川方の軍勢によって陥落した。
徳川軍は、そこからさらに兵を進め、翌24日、大垣城の北西約4キロ、美濃赤坂にある標高53mの低山、岡山及びその周辺に陣を布いた。
この時点で家康はまだ江戸にいたが、大垣城を拠点とする大坂方に対して徳川軍は岡山を拠点とし、家康の到着を待つつもりであった。
『黒田家譜』には「赤坂の南に当たって、岡山とて三町四方ばかりの小山あり。諸将目代相談有りて、此山を家康公の御本陣と定め陣城をかまえ、其の山の四方に諸将陣をとる。」とある。
岡山は現在も大垣市の北西、美濃赤坂駅のすぐ西にそびえている。
現在の岡山はその安楽寺の墓地が斜面に造成されてはいるが、全体的にひどい破壊などは見られず、基本的には当時の縄張りがそのまま残っているものと思われる。
岡山はなだらかな低山で、山麓から10分もあれば簡単に山頂に到達できる。
山頂は平らで現在は水道施設が設けられてはいるが、合戦当時から広く削平されていたのであろう。
そこが、岡山の中心的な曲輪で、家康はそこに入ったものと思われる。
山頂をとりまく斜面は切岸状となって、一部腰曲輪が形成されているようだが、大規模なものではない。
さらに、大手の登り口には当時は浅い堀が存在したようでその痕跡が今もわずかに残っている。
ただ、それ以上の普請などはどこにも見られず、岡山には大規模な普請がなされた痕跡がない。
岡山は家康の本陣となるはずであるのに要害性の高い作りにはなってはいないのである。
、(岡山遠景)

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