東軍の新たな本陣は菩提山

いくら家康が駆け付けたとはいっても、徳川軍が大坂方の精鋭、石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らが籠る大垣城を短時間で落とすのは難しい。
何より、西の南宮山から毛利秀元ら3万の大軍が救援に駆け付けた場合には挟撃される可能性もある。
そう考えると、合戦は長期戦になることもあり得る。
要害性のない岡山の陣では心もとない。
大軍の出入りが出来、兵数が収容できる大規模な陣城が必要になることはいうまでもない。
そのうちに、中山道を行軍中の秀忠の3万5千の兵も到着するはずである。
少なくとも、9月14日の午後の時点ではそんなシナリオを立てていたのではなかろうか。
これは言葉を換えれば、彼らが、岡山の本陣は三成方の攻撃に耐えられる構造ではないことを何より認識していたことになる。
井伊直政らが、新たな本陣と考えていた「菩提山」とは、岐阜城陥落前後に家康方についた竹中重門のかつての居、城美濃垂井の菩提山城のことである。
竹中重門の父は若き頃の豊臣秀吉のもとで活躍し、天正7年(1577)、播磨三木城攻めの陣中で35歳の若さで亡くなった竹中半兵衛である。
天正元年(1570)に菩提山城で生まれたとされる嫡子の重門は当時7歳であったが、やがて、父の家督を継ぎ、竹中家の当主となった。

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