「要害もなき陣所」

『黒田家譜』に「要害もなき陣所に、八月二十二日より九月十四日まで、二十余日対陣し」とあり、岡山の陣所には要害性がないことが認識されていたことが分かる。
家康がこの岡山に到着するのは、関ケ原合戦の前日9月14日の正午ごろである。
その日までは、徳川軍が布陣してから約二十日間もの期間があり、岡山を要害堅固な陣城に作り替える時間は十分にあったはずである。
岡山の周囲には、福島正則、池田輝政、黒田長政ら歴戦の武将、そして彼らが率いる兵約3万が岡山を取り囲むようにして布陣しており、労働力に不足はない。
当時、石田三成らは前線の岐阜城を失ったことから、大きな危機感を覚え、大垣城とその周辺にさらなる戦力の集中をはかろうとしていた。
その三成らの意を受けて、この後、伊勢方面から宇喜多秀家、毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親らが、加賀・越前方面からは大谷吉継らが次々と美濃に入ってくる。
そのような情勢の中で、本陣岡山はいつ三成らの攻撃を受けるかもしれず、このような要害性の低さでは心もとないことは事実である。
『黒田家譜』には「其の上、味方の陣は城郭もなければ(中略)定めて敵寄せ来らん」と述べられているが、それが彼らの本音であったことだろう。

(岡山山頂)

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