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一体化していた松尾山と山麓脇坂陣

関ケ原合戦の前日14日に松尾山に小早川軍が入ったことで、脇坂の立ち位置は決まった。そこでは、必然的に脇坂が戦場で背信行為を行い、家康方として戦わざるを得ない状況が出来上がってしまったのである。脇坂の陣として伝えられているのは、松尾山の山麓で...
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脇坂安治の迷い

彦坂元正・石川安通連署書状によれば、「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあり、小早川、脇坂、小川の裏切りによって関ヶ原での合戦は...
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松尾山城への入城自体が大坂方(三成方)への敵対行為

関ケ原合戦の前日、9月14日、松尾山に布陣している秀秋の重臣平岡頼勝・稲葉正成に宛てて井伊直政・本多忠勝から「家康に忠節すれば、今後ないがしろにすることはなく、上方で二か国の領国を与える」という起請文が出されていることから、平岡頼勝・稲葉正...
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8月末の小早川秀秋の動向

この8月28日時点においては、小早川はまだ徳川方につくとのはっきりした意思をもっていなかった可能性は高い。伏見城攻めにおいて、小早川は伏見城に近い醍醐寺に唯一禁制を出していることから、彼が主将格の一人であったことは間違いない。(『小早川秀秋...
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関ケ原直前の小早川秀秋の動向

関ケ原合戦の前月、八月二十二日付佐々正孝が出羽の秋田実季に宛てた書状の中によれば、大谷吉継らは、前田利長の軍勢を防ぐべく越前木の芽峠に砦を築いて、小早川秀秋を城主として守らせるつもりであるとある。ここから、小早川秀秋は、越前方面の防備に主将...
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西軍、関ケ原への移動の理由

小早川秀秋は、関ケ原合戦の前日、松尾山城で守備をしていた大垣城の伊藤盛正とその兵を追い出す形で松尾山に入城した。通説では、三成らが十四日深夜に大垣城を出て関ヶ原に移動した原因が、去就が疑われる小早川秀秋が最重要の松尾山に入ったことから、大谷...
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小早川秀秋にジャックされた松尾山城

そう考えると、松尾山城には西軍の総帥毛利輝元、そして輝元が擁する秀吉の遺児で主君の豊臣秀頼を入れるつもりであったのではなかろうか。松尾山城に西軍の総帥である毛利輝元と主君豊臣秀頼が入れば、家康に従って来ている豊臣系大名は西軍に手出しなど絶対...
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松尾城入城者は西軍VIP

中国衆・毛利家の当主毛利輝元は西軍の最高責任者総帥として大坂城にいて豊臣秀頼を擁していた。秀頼はこのときわずか八歳ではあったが、天下人秀吉の唯一の遺児であり、この時点では、家康をはじめ全国すべての大名の主君でもあった。この秀頼を手中にしたこ...
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松尾山城への入城者は「中国衆」

そう考えると、松尾山の城の中心部である本丸に入るべき人物は貴人、つまり西軍のVIPであったのではないか。だから、それにふさわしい立派な門を配して格式を整えようとしたのではなかろうか。松尾山城の桝形虎口は、櫓を配したもので、南宮山のものよりは...
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立派な虎口をもつ松尾山城の意味

松尾山城本丸の周縁はすべて土塁で囲まれ、本丸の西にある虎口(入口)には櫓を備えたと思われる門の跡まで残っている。しかも、その門跡は『桝形(ますがた)虎口(こぐち)』で本丸の大きさから比べると比率的にかなり大きい。敵が本丸に攻めてきた場合を想...