岡山は仮の本陣

慶長5年(1600)9月14日正午ごろ、ついに家康が本陣岡山に到着した。
すると席を暖める間もなく、諸将が家康のもとに集まって軍議を開いた。
そこで協議されたのは、翌日の開戦についてであった。
この時点では、三成ら大坂方は大垣城から関ヶ原へ移動していないことから、徳川軍は大垣城を攻めるつもりであったということになる。
その後、今度は井伊直政、本多忠勝ら家康の重臣たちが集まって一つの協議をした。
それは、岡山から本陣を移すである。
彼らは、岡山は仮の陣で、要害性が低いことを認識していた。
彼らは、家康に本陣を岡山から菩提山に移すことを提案した。
それに対して、家康は、今、大軍を移せば、敵に察知され、攻撃を受けることになるのではないかと危惧した。
すると、直政は、菩提山に行くための間道を事前に調べて置いたので抜かりはないと答えたという。(『朝野旧聞裒藁』)
井伊直政、本多忠勝は菩提山城を本陣として、そこに大将家康を入れ、三成の拠点大垣城と対峙すると共に、そこで秀忠率いる徳川本軍3万5千の兵を待つという構想を描いていた。

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