古代から残る不破の関の土塁を利用した宇喜多陣

関ケ原の宇喜多秀家陣跡には壮大で強固な防衛ラインが今も残っている。
それは、宇喜多陣の前面(南面)を防衛している土塁のラインである。
この土塁がすごいのは、基本的には、古代から存在していたものを利用していることである。
関ケ原には、奈良時代、東山道や伊勢街道からの外敵の侵入を阻むために構築された関があった。
不破の関である。
関ケ原という地名は、この不破の関から来ていることはいうまでもない。
不破の関は、藤古川を西の防衛線として取り入れ、その左岸北方に東西460メートル(北限の土塁)、そこから南北に東山道を挟んで432メートル(東限の土塁)、その南面に東西112メートル(南限の土塁)という規模の大土塁が周囲三方を囲む構造となっていたことが分かっている。
延暦8年(789)、関は廃止されたが、東山道を通過する人荷から関銭を取るための関はその後も存在し、そのため、土塁も壊されることなくそのまま残されていた。
関ケ原合戦当時、この土塁は完全な形で残っていたものと思われる。
その土塁が残る関ヶ原「松尾」の地は当時石田三成の領地であった。
三成は当然この大規模な土塁の存在を知っていたはずである。
(不破の関北限の土塁跡)

タイトルとURLをコピーしました