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豊臣家三奉行の豹変

6月25日、三奉行は東下する上杉討伐の軍勢に対して、兵糧、馬飼料の給付を証明する連署状を発した。 これは、上杉征伐が豊臣政権の意思であることを何よりも示している。 この上杉征伐に、諸大名が家康に従うのは当然のことであった。 彼らの出陣は公儀...
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豊臣政権公認となった上杉征伐

家康によって政権中枢部から遠ざけられた石田三成は、それ以降、表面上は居城佐和山城で隠遁生活を送っていた。 三成は嫡男の隼人正重家を家康に出仕させ、家康はやがて重家に奉行職を継がせることを言明するなど両者は表面上良好な関係を保っていた。 しか...
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上杉攻め前夜

慶長4年(1599)閏3月、石田三成襲撃事件が福島正則、黒田長政、浅野幸長ら豊臣系の大名七将によって引き起こされた。 この事件は、秀吉亡き後の豊臣政権内に衝撃を走らせた。 彼ら七将は日頃から、朝鮮出兵での論功行賞などをはじめとする三成の措置...
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徳川VS上杉の戦いはパフォーマンスか?

ステイホームに徹する毎日ですが、家にいても何か少しでも楽しめるものがあればいいですね。 私などは、お城のペーパークラフトを作ったりしていますが、元来が不器用のため、不格好なお城しかできず、完成品を遠くから見るようにして楽しんでおります。 さ...
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小西行長の逃走路

関ケ原での戦は、彦坂元正・石川安通連署書状に「筑前中納言殿(小早川秀秋)・わき坂中書(脇坂安治)・小河土佐父子(小川佑忠・佑滋)、此四人御味方申し、うらきり(裏切り)を致し候、則敵敗軍仕り」とあるように、小早川、脇坂、小川の裏切りによって一...
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黒田長政のもう一つの戦い

『黒田家譜』によれば、「長政は竹中丹後守当所の案内を知れる人なれば、是と同道し、他将に離れて岩手山の末野を押し給う。是間道を経て伊吹山の麓、相川の北に出、直に関ヶ原に向かいて石田が陣の横合にかからんとなり」とあり、黒田長政は他の諸将と異なり...
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家康の決断

もし、この軍勢が中山道の背後から徳川軍を攻めたとしたら、徳川軍は挟み撃ちに会い、苦戦を強いられることは必至であった。 しかし、先のブログで述べたように、最終的には、輝元の指示を受けていた安国寺の現場における判断、すなわち、大坂方不利の状況の...
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三成の思惑を打ち砕こうとした家康

このブログでも紹介した宇喜多秀家陣の防塁、玉の城山も三成らによって築かれたそれら要害の一つであり、それ以外にも『敗者から見た関ケ原合戦』で述べた北国街道を塞ぐ長い土塁なども存在し、松尾山から三成の笹尾山に至るまでが中山道、北国街道を封鎖する...
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短期決戦を考えていなかった三成

長盛と家康が通じているという噂は確かに当時あったものと思われるが、その事情で輝元が出陣を取りやめたとは思えない。 だが、ここで重要なことは、輝元出陣の噂があったということであろう。 それが、事前に家康の耳に入っていたとすると、これが家康をし...
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西軍移動す

彦坂元正・石川安通連署書状に「十四日之夜五ッ時分ニ大柿外曲輪を焼払、関か原へ一所ニ打寄候つる」とあり、それまで大垣城に籠っていた大坂方は城下に火をつけて、14日深夜、関ヶ原への移動を開始した。 だが、大坂方はメインの中山道ではなく、長曽我部...