共に正義を主張する家康と上杉

上杉氏が謀反を企てるということは、豊臣政権に反旗を翻すことであり、それは秀吉亡き後の主君秀頼に対する軍事行動を意味する。
家康はそれを明かに公儀に背くものだとし、秀頼の名代として、公儀の元で上杉征伐を行うとの大義名分を掲げたのであった。
その大義名分がある以上、豊臣政権下の武将たちは家康に従うしかなかった。
この上杉征伐に従軍していた豊臣配下の武将たちの中には加藤清正、黒田長政、福島正則といった武断派だけではなく、それ以外の武将たちも数多く参加していたが、その中にはただ公儀の名のもとに義務的に加わっていた者もいたことであろう。
こうして家康が公儀の御旗を振りかざして進軍してくるのに対して、上杉氏はただそれを受け入れて合戦に及ぼうとしていたのであろうか。
上杉景勝は毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成らに宛てた書状の中で、こう述べている。
「景勝は秀頼に対して忠節を尽くすため、やがて関東に出陣するが、その前に奥羽で蜂起(伊達・最上氏)の動きがあるので、これを鎮めてから関東へ駒を進める予定である」というのである。
ここでは景勝も秀頼に忠節を尽くすため、つまり、豊臣政権の公儀のもとで関東へ出馬すると理由づけを行っている。
景勝も家康同様家康との私戦ではなく、公儀のもとでの軍事行動という大義名分を前面に押し出そうとしていた。
景勝の重臣である直江兼続も家康との対決を「天下へのご奉公」としており、上杉家の軍事行動は豊臣政権へのご奉公であるという理由づけをしていた。
この背景には、三奉行から諸大名に送られた「内府違いの条々」という公式文書の存在があった。

タイトルとURLをコピーしました