上杉攻めの中止

7月21日、家康はそんな上方の動きが気になりながらも、江戸を出発し会津に向かった。
同日、三成は信州上田の真田昌幸に状況を知らせる第一報を送った。三成にとって、真田の存在がいかに重要であったかを示している。
翌22日、今や家康方の拠点となった伏見城を攻めるために、小早川秀秋、宇喜多秀家、大谷吉継らが伏見に着陣した。
伏見城には家康方の鳥居元忠を大将に1800の兵が籠っていた。
23日、家康は、出羽の最上義光に「一連の動きは石田三成と大谷吉継の陰謀であり、自らの立場は三奉行と同じである」と、今度の上方での騒動は石田三成と大谷吉継の両者が企てたもので、豊臣三奉行とは無関係であることを強調し、自らの正当性を訴えている。
しかし、事態は家康の想像以上に大きく進展していた。
三成らは、大老で東北会津の上杉景勝と連携して家康の背後を脅かし、家康がそれに手こずる間に上方に諸大名の兵を結集し、家康を討つというシナリオを立て、それをすばやく実行すべく行動を開始していたのである。
家康としては、三成らが上方に大軍を集結させる前にそれを打ち砕き、自らの正当性を満天下に示すしか道はなくなった。
豊臣政権が家康を謀反人とした以上、大義名分は三成の方にあるのである。
家康は三奉行と二大老の逆心を知ると、上杉攻めを急きょ中止した。
そして、上杉攻めに従軍してきた福島正則、池田輝政、黒田長政、細川忠興らの豊臣大名を自らの陣営に取り込む策に出た。
彼らは家康個人ではなく、豊臣政権という公儀の命を受け上杉攻めに従軍していたのである。
彼らが、豊臣公儀に従うなら家康とは袂を分かたねばならない。
しかし、彼らが家康の敵になったら、家康に勝ち目はない。
なぜなら、家康は事前に大量の軍勢を上杉攻めに投入しており、手持ちのだけの軍事力では到底上杉や三成らに対抗できるはずはなかったからである。

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