そんな情勢の中、18日、石田三成は内々に豊国社への参詣を行っている。(『時慶記』)
ここに、三成が京都に来ていたことが分かる。
この日、大坂方は細川忠興の父幽斎の籠る丹後田辺城に軍勢を差し向けた。
19日、毛利輝元は大坂に到着し、直ちに大坂城西の丸に入った。
三奉行の輝元への上坂要請からここまでわずか一週間という異常なくらいの早さである。
このあまりにも手際の良すぎるこの動きは三奉行、毛利輝元、石田三成らによる事前の謀議がなされていたことを何より示している。
また、薩摩の島津も早々に上杉に連携を呼び掛けていることから、それに加わっていた可能性が高い。
もし、輝元が事前に何も知らされずに、ただ三奉行からの書状を見てあわてて広島を出たとしたら、こんなに手際よく出国などできなかったはずである。
毛利輝元は大坂に船で入っているが当然一人ではなく、大量の軍勢を引き連れている。
船の準備、さらには、連れて行く大量の兵の人数を揃え、それなりの装備、糧食を整えさせるだけでも、どんなに急いでも一週間くらいは要するのではなかろうか。
そこから分かることは、輝元はいつでも出発できる準備を整えており、三奉行からの正式な要請を待っていたということになる。
すべて事前の謀議によるものであろう。
また、三成が18日時点で京都にいたことから、この三奉行の一連の動きに関わっていた可能性は高い。