豊臣政権公認となった上杉征伐

家康によって政権中枢部から遠ざけられた石田三成は、それ以降、表面上は居城佐和山城で隠遁生活を送っていた。
三成は嫡男の隼人正重家を家康に出仕させ、家康はやがて重家に奉行職を継がせることを言明するなど両者は表面上良好な関係を保っていた。
しかし、このころ、三成は増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行、さらには、毛利輝元、宇喜多秀家の二大老とはかって政権内から家康を追い落とすことを画策し、時期を待っていたものと思われる。
彼らは先の三成襲撃事件を通して、深く結び付き、それぞれが増長する家康の権力に大きな危機感を抱いていた。
そんな中、慶長5年(1600)6月15日、三奉行は家康の上洛命令に従わない上杉景勝を攻めるため、家康に会津出陣の命を下した。
これは家康の意向を汲んだ形で豊臣政権を代表する三奉行が命を下したものである。
ここに、上杉征伐は家康と上杉との私戦ではなく、豊臣政権による正式な軍事戦となった。
翌6月16日、家康は大坂を出発した。

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