東海道を確保した家康

7月24日、家康は、家康は下野小山に到着すると、翌25日軍議を開き、今度の上方での異変は石田三成らが幼君秀頼を利用して起こしたもので、自らの秀頼に対する忠節は変わってはいない、さらに、今は奸臣三成らを討つことが豊臣家への御為であるとの大義名分を立て、諸将に去就を問うた。
家康としては、「内府違いの条々」が従軍した諸大名に届く前に、彼らを取り込む必要があった。
この間、美濃黒野城主加藤貞泰は上方の異変の真偽を確認するため、従軍を延期したい旨を知らせてくるなど諸将の間でも不安は広がっていたことは事実であろう。
軍議では、真田昌幸ら一部の大名を除き、諸将は家康の申し出を受け入れ、家康と行動を共にすることを約束した。
そこで、家康は、三奉行からの家康糾弾の書状が彼らに届く前に、彼らを上方に出発させ、三成らに対峙させることとした。
それに伴って、その道筋にあたる福島正則の居城尾張清州城や池田輝政の居城三河吉田城など東海道筋の城を家康が召し上げる形でそこに徳川譜代の家臣の兵を入れるとともに、彼らから人質を取ることとした。(7月27日付榊原康政書状)
これで、東海道は完全に確保した。
一つの街道を確保したことで、尾張までの道筋が開けた。
26日、毛利軍2万は近江に進軍し、小早川秀秋、宇喜多秀家も近江大津付近まで進軍した。
29日、毛利輝元、宇喜多秀家の二大老が家康糾弾の文書を正式に発給した。
家康はここに三成、三奉行に加えて毛利輝元、宇喜多秀家を新たな敵とすることが確実となった。
家康は同日付で黒田長政に宛てた書状の中で「大坂奉行衆別心の由、申し来たり候」と述べ、ここに大坂が完全に敵になったことを告げている。
しかし、それでも、家康は江戸を動けなかった。
それは、上杉景勝の動きが読めなかったからである。

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