豊臣家三奉行の豹変

6月25日、三奉行は東下する上杉討伐の軍勢に対して、兵糧、馬飼料の給付を証明する連署状を発した。
これは、上杉征伐が豊臣政権の意思であることを何よりも示している。
この上杉征伐に、諸大名が家康に従うのは当然のことであった。
彼らの出陣は公儀の命に従った結果であり、家康に従うことが豊臣家への忠義となったからである。
しかし、家康が大坂城を出ると、三奉行の態度、そしてその措置は一変する。
大坂を出た家康が江戸で出陣の準備を整えていた7月12日、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行は広島の毛利輝元に上坂を促す書状を送った。
そして、その二日後の14日、三奉行は大坂にある諸大名の屋敷を直ちに制圧する動きに出たのである。
さらに、その翌日の15日、三奉行からの要請に応える形で、輝元は国元を直ちに出発した。
また、同日、島津義弘は会津の上杉景勝に毛利らとの連携を呼び掛ける書状を送っている。
17日、大坂城にいた輝元の養子秀元は輝元の命を受け、家康の置いていた留守居役と五百の兵を追放し、大坂城西の丸を占拠して、輝元の到着を待った。
すると、それを見届けるように、三奉行は同日、家康を糾弾する文書「内府違いの条々」を全国の諸大名に送り、家康打倒を呼びかけたのであった。
さらに、三奉行は一族挙げて家康に味方する細川家の追討をも命じ、家康、そしてそれに味方する大名たちに宣戦布告を行った。
ここに、豊臣公儀は家康を豊臣家に敵対する存在として糾弾し、それに追従した大名たちの離反を促したのである。

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