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徳川諜報活動の拠点黒羽城

黒羽城には、岡部長盛が甲賀衆百人を、服部保英が伊賀衆百人を率いて入城しており、黒羽城には二百人という大量の忍びが配されていたことになる。彼らの投入は上杉領の情報収集であろう。ここから、黒羽城はその諜報活動の拠点であったことが推察される。『浄...
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那須の巨城黒羽城

さらに、この大田原城と並んで徳川方による大改修が行われたのが同じく那須一族大関氏の居城黒羽城である。黒羽城には伊奈主水が普請奉行として派遣され、城の改修にあたったことが分かっている。この城は、引き続き、近世まで使われていたという事情もあるが...
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生まれ変わった大田原城

(大田原城本丸)改修されて巨大な城となった大田原城。この本丸に対上杉前線基地が置かれた。(二の丸から本丸に入る虎口)ここには、櫓門があったと想定される。(本丸を囲む土塁)本丸を囲むすっぽりと囲む土塁は高く、幅も広い。所々屈折しており、攻撃的...
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外郭が構築された大田原城

城は陸羽街道の南側の本城部分だけではなく、その北側にある大久保山まで大きく城地を広げている。そこは最北の堀、通称「江戸堀」まで延々と八百メートル近くも平地が続くが、そこは外郭ともいうべきところで、大部隊の駐屯が可能となっている。まさに、大田...
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徳川軍の最前線大田原城の大改修

このまま行けば、那須衆は白河口から会津に攻め入る徳川軍の最前線・楯として上杉軍と戦うことになるはずであったが、石田三成が上方で家康打倒の兵を挙げたため、会津攻めは突然中止となった。しかし、上杉軍の南下、関東乱入の可能性が残されているかぎり、...
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徳川最前線の構築

家康は七月二十日に江戸に入るが、徳川軍の先鋒である徳川譜代の重臣酒井康政は七月十五日、徳川本陣となる宇都宮からさらに北にあって会津・下野国境に近い大田原城に入った。家康としては、まず、那須の中心拠点の一つである大田原城を押さえ、そこに先鋒軍...
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会津・下野国境の不穏な動き

境目の事情は上杉氏も同じであった。『那須記』にある那須一族の芦野五郎左衛門に宛てた八月二十日付けの上杉景勝の書状によれば、景勝は那須一族の芦野五郎左衛門を調略し、那須氏内部を撹乱し、結束を乱そうとしていたことがわかる。芦野は下野と上杉領の境...
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境目の緊張

慶長五年(一六〇〇)五月三日、家康は会津・下野国境那須伊王野城主伊王野資信に防御態勢を固めることを指示している。そのころ、家康はまだ大坂城にあり、上杉討伐に出発したのは六月十六日であることから、家康はかなり早い時期に最前線となる地に臨戦態勢...
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惣無事令の崩壊

上杉氏はすでに述べたように豊臣政権への公儀の軍事行動として動いていた。しかし、会津における神指城の新規の構築は会津につながる街道防衛整備と時期を同じくしており、領内強化の一環と考えられる。言葉を替えれば、それは私戦の準備に過ぎなかったといえ...
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家康の対上杉戦略

そこでは上杉、徳川両軍共に公儀の軍事行動であることを前面に打ち出し、共に正当性を主張している。だが、両者はその合戦図をどのように描いていたのであろうか。 家康の軍団編成で注目すべきは、そこに福島正則、細川忠興、黒田長政らという武断派といわれ...