惣無事令の崩壊

上杉氏はすでに述べたように豊臣政権への公儀の軍事行動として動いていた。
しかし、会津における神指城の新規の構築は会津につながる街道防衛整備と時期を同じくしており、領内強化の一環と考えられる。
言葉を替えれば、それは私戦の準備に過ぎなかったといえるであろう。
上杉景勝は慶長五年三月に白河街道沿いの赤津城の再興を命じているが、それはまさに戦略的兵站基地の確保であり、会津の強化と同時並行で進められていたものと思われる。
こうして、国内と街道沿いの強化整備は進められていたが、上杉氏にとっても直ちに関東へというわけにはいかなかった。
それは徳川方として上杉領の後方を脅かす伊達氏や最上氏の動きを封じ込める必要があったからである。
特に、伊達氏は旧領回復をねらって福島城を攻撃するなど、すでに私利私欲による私戦を繰り返していた。
それに対して上杉氏もいつ何時に侵入してくるか分からない伊達の勢力を何とか封じ込めるための私戦を展開せざるを得なかった。
その意味では、上杉氏も「天下へのご奉公」と言いながら、実は惣無事令に全く反する私戦を展開していたのである。
要するに、この時期、東北や北陸、九州で行われていた合戦はれっきとした私戦であった。
秀吉の死後、惣無事令はまったく効を奏していなかったといえる。

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