上杉の謀反とは?

家康は慶長五年(一六〇〇)四月に伊奈昭綱らを景勝のもとに派遣し弁明のためその上洛を求めたが、景勝はこれに応じようとはしなかった。家康は上杉家の宰相として景勝の信頼厚い直江兼続に宛て、兼続と親交の深い豊光寺承兌に書状を持たせてその真意を探ろうとした。
しかし、直江兼続はこれに強く反発し、「直江状」といわれる十五ヶ条からなる長文を認め、その中で道を整備したり、橋を作ったりするのは民の往還の憂いをなくすためで軍備とは関係ない、律儀な景勝に謀反の計画などあるはずはなく、上杉を讒言した者との対決がなければ上洛はあり得ないとした。
しかし、家康はこうした説明に納得するはずはなく、上杉に謀反の企てありとして上杉討伐に踏み切っていったのである。
ここでいう「謀反」とは家康個人ではなく豊臣政権に対しての謀反という解釈である。
天正十五年(一五七八)秀吉は関白として諸大名に「関東・奥羽両国惣無事令」を発し、大名間の抗争を禁止した。
これはそれまで全国各地で行われてきた領地争いなどの様々な私戦の停止であり、この命令に背くということは天皇や関白秀吉に背くのと同じであり、その場合は豊臣政権という公儀によって処罰を受けるということを意味していた。
これは、これまで様々に私利私欲によって展開されてきた全国各地の軍事行動が「惣無事令」によって一切禁止されたことを意味する。
そして、家康もこの「惣無事令」を前面に出して景勝を謀反としたのであった。

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