上杉景勝の帰国

慶長四年八月、上杉景勝は新たな領国会津の仕置きを完全にするため、家康の許可を得て、伏見を立って会津に帰っていった。
そこでは国内の城の整備配置や新たな家臣の獲得、道路や橋の整備などやらなければならない課題が山積していた。
景勝は伏見に滞在していた間、前田利家亡き後の豊臣政権の不安定さを実感していた。
石田三成襲撃事件では宇喜多・毛利らの大老は三成を支持し、事件後、未遂に終わったものの毛利に至っては三成や大谷吉継らと共に大坂城を占拠し、家康を追い詰める算段までも行っていた。
この事件では景勝も石田派と目されていた。
やがて豊臣対徳川という図式はさらに鮮明になる。
景勝の帰国は、そんな中央政界の空気を感じての帰国であったろう。
そこでは、会津の領国整備は必然的に自国の防衛体制の整備につながることを景勝は意識していたに違いない。
下野日光から会津へとつながる会津西街道(日光街道)や白河から会津につながる白河街道を上杉氏が警戒し、そのとき施したと思われる峠の防塁遺構や陣城などの防衛遺構が文献の上からもまた今も残されている遺構からもある程度知ることができる。
これら峠の道の整備や川に橋を架けたり、城郭の整備、大量の牢人の雇い入れなどの上杉氏の行動は越後の堀氏などの近隣の大名たちから家康のもとに報じられることになった。
これらが上杉の軍事力を強化し、世を乱す不穏な動きと解されることは当然のことであった。

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