宣教師の見た秀吉⑪

実は秀吉がシナへの征服を口にしたのはこのときが初めてではなかった。
秀吉は以前コエリョが大坂城を訪問した際も「海の彼方に進出して領土を拡張するのがこの先の夢である」とコエリョに語っていた。
さらに「その際は南蛮船を提供するよう」と命令とも依頼とも取れる言葉を残していた。
伴天連たちは、そのときは、それが秀吉の妄想だと思った。
だが、大坂築城後の秀吉はすでに大陸遠征を考えていたことが分かる。
それは信長がなし得なかった構想の実現でもあった。

島津の全面降伏を受け入れた秀吉は、全軍に停戦を命じ、自らは肥後の八代から博多箱崎に陣営を移した。
大軍の撤収とあいまって、陣営の長さは二里に及んだという。
コエリョは長崎からフスタ船で博多に先回りし、七日前から関白を待っていた。
博多では伴天連とフスタ船を見物に訪れる人で終日賑わっていた。
フスタ船とは底の浅い細長い帆船で伴天連たちの移動に使われていた。
関白は戦で荒廃した博多の町の復興を命じ、自らが定めた町の区割りを検分するため浜に出かけた。
するとそこにはフスタ船が停泊していたので、関白は船を漕がせて帆船に近づくと、共の者たちと船内に乗りこんだ。

タイトルとURLをコピーしました