宣教師の見た秀吉⑥

北条征伐と九州征伐の実態
天正18年(1590)秀吉は北条征伐に踏み切ったが、フロイスは北条の城(小田原城)には十分な貯えと兵力があり、そうやすやすと陥落するはずはないとの思いをもっていた。
一方、秀吉は二十万の兵力を動員したものの、遠隔地から調達された寄せ集めの兵であり、長途の疲れと見知らぬ敵地での恐怖感で戦闘能力を喪失しているかもしれず、さらに食糧の不足が彼らの間で囁かれていた。
まして、冬季に入れば、上方では想像もつかない積雪に悩まされる。
それによって関白軍が退避する時が北条軍には待望の機会となるはずであった。
そこで一挙に攻撃をかけて敵を粉砕するのが北条の戦略であった。
(そう考えると、一夜城の建設は北条ばかりではなく、寄せ集めの秀吉軍に対する権力の誇示であったという説もうなづける。また、城を囲むばかりで士気が弛緩するのを防ぐ意味もあったのかもしれない)
「(だが、関白は)運命にも所業にもきわめて恵まれており、また、非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引する術に長けていたので、北条方の関東の諸城は孤立してしまい、なかでも北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半がいたいくつかの城(八王子、忍、金山、鉢形等)は陥落していった」
これにより、小田原城に立て籠っていた武将も兵士たちも戦意を失い、城主(氏直)の義父にあたる家康の仲介によって城を明け渡すことが詮議され、「降伏の申し出を受けた関白は氏直の父氏政と叔父氏照(八王子城主)に切腹を命じ、城主の氏直は剃髪させ高野の僧院に追放した」
まさに、この戦は長引けば、大軍であるだけに秀吉軍の不利になるところであったが、北条方の諸城が次々と陥落したことが、小田原城に籠っていた武将たちの戦意喪失につながり、やがては開城につながったのである。
決して石垣山一夜城の築城だけが原因ではなかったことが分かる。 

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