宣教師の見た秀吉⑦

九州島津征伐
秀吉が九州の戦国大名大友宗麟の援軍の要請に対して動き出したのは、すでに大友が島津との決戦(耳川・高城の戦い)に敗れてから八年が経過してからのことであった。
その間、九州では島津が大きく勢力を拡張して、大友と並ぶ強敵肥前の龍造寺隆信を倒し、かつての大友の領国筑前・筑後をも支配し、後は豊後一国となった大友を倒せば、九州全土の支配が可能になるところまできていた。
「豊後勢(大友)の恐怖と怯懦は驚くばかりで、彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に錬磨された者までもが、たちどころに震えだし歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった」とフロイスは述べている。
大友家の当主は宗麟から義統に変わっていたが、大友軍は島津と戦う意思も気力も持ち合わせておらず、大友から島津に寝返る者が後を絶たなかった。
もう、この時点で大友は島津に滅ぼされるのは時間の問題となっていたが、秀吉の救援がここまで遅れた理由は、小牧・長久手の戦いとそれに続く家康の抵抗などによる。
また、家康に味方した越中の佐々成政や北条氏の処理などもあり、容易に九州には兵を出せる状況にはなかった。
しかし、いよいよ中央から関白の軍がやってくるという事態となっても、薩摩の島津はそれを信じようとはしなかった。

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